“ちびた下駄”が「あがた森魚」の運命を変えた… 「赤色エレジー」大ヒットの裏側とテクノポップへの転身
テクノポップの「ヴァージンVS」で「うる星やつら」の曲を
大ヒットで手にした資金を使い、1974年には自主映画「僕は天使ぢゃないよ」も制作した。音楽では、同年に松本隆プロデュースのアルバム「噫無情(レ・ミゼラブル)」を、1976年には細野晴臣プロデュースのアルバム「日本少年(ヂパング・ボーイ)」を発売。その後もアルバム制作を続けていた。
ところが1981年に、突如「ヴァージンVS」というバンドのボーカル「A児」として、シングル「ロンリー・ローラー」でデビューした。
あまりに存在感が大きかった「赤色エレジー」から何とかして逃れようと模索を続けていた。もう下駄は履いていない――。それを証明するひとつの方策がヴァージンVSだったのだ。
「『赤色エレジー』って、ぼさっと髪を長くして、むさくるしい格好でややうつむきながら歌ってた姿に、当時の若者の音楽ムーブメントの象徴的な役割を与えられていたんだろうなあ。だから持ち上げられたけど、逆に足を引っ張られたこともあった。いろんな評論家にぼこぼこにされたり、辛辣なことを言われたり。それぐらい人前に出て有名になるっていうのはすごいことなんだよね」
だからこそヴァージンVSでは「A児」を名乗り、金色スーツに切れ長のサングラスという姿で、「赤色エレジー」とは正反対の方向に振り切った。1982年7月に発売した5枚目のシングル「コズミック・サイクラー」は人気アニメ「うる星やつら」のエンディングテーマに採用された。確かに「うつむいてめそめそ歌う」イメージのあった「赤色エレジー」の姿が払拭されたと証明するような活動だった。
今からでもニューヨークへ
憧れのボブ・ディランが米ミネソタ州ダルースからニューヨークへ出て活動したように、1985年頃には活動の拠点をニューヨークに移そうと考えたこともあった。これも「赤色エレジー」から逃れるための案のひとつだったが、残念ながら実現しなかった。
「あの時に移住してたらどうなってたか。今からでも遅くはないんだけどね」
とはいえ、今も意気盛んだ。2011年以降、毎年必ずアルバムを制作し発表し続けている。
「76歳になったけど、なるべくみんな長生きしてほしいと思う。俺の歌をまた聴きたいなと思ってくれれば嬉しいね」
ライブ活動も続けている。会場には当時のリスナーだった人々が三々五々集まり、「あの頃は青春でした」「エキセントリックでしたね」と声が掛かることを贅沢だと感じているそうだ。
「今は歌謡曲や流行歌という言い方もしなくなったけど、ヒット曲はヒット曲で、美空ひばりであれ三橋美智也であれ、かつてはみんなが知っていた。現代批評になっちゃうから深入りはしないけれども、歌っていうものの意味や価値がだいぶ変わっちゃったよね。昔はもっと色鮮やかだったよね」
その時代を再現するためにも、精力的にステージに立ち続ける。
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