四畳半フォーク誕生前夜 ボブ・ディランとの出会いが「あがた森魚」少年を音楽に導いた

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雪の中の田んぼで自作曲を歌う

 ディランの音楽に、自分の将来への道を感じた。ビートルズやストーンズ、キンクス、ザ・ビーチ・ボーイズなどにカッコよさを感じつつ、ディランの歌には特別な思いを感じていた。

「ビートルズのようなカッコいい音楽は自分にはできるわけないと思っていたんだ。対してディランには、個人がどう生きていくか、きれいごとでいえば、一人ひとりが幸せに生きていくためにはどうすればいいのか、という誰もが考えるようなテーマがあった。それは今でも僕の音楽において大きなテーマだけどね。で、音楽をやろうと思ったら、楽器が必要だなと思って。ディランのスタイルで行くんだったら、アコースティックギターと、ハーモニカホルダーにハーモニカがいるな、と考えたけど、何も持っていない。でもその年(1965年)の終わり頃には、もう2、3曲を頭の中で作り上げたんだよ」

 詞は文字にして書けるが、楽譜は書けなかったので浮かんだメロディーを繰り返し頭の中で反芻した。高校からの帰り道にあった湯倉神社の裏で、雪が積もる畑に長靴でずぼずぼと入り込み、メロディーが浮かんでくるのを待った。「精霊が降りてくるような場所」だったという。ただそれをスマホですぐに録音できるような時代ではなく、家に帰るとメロディーを思い出せないこともあった。そんな日々を続けているうちにようやく曲ができた。最初に手がけた自主制作アルバム「蓄音盤」の1曲目「冬が来る」はそのひとつだ。

「四畳半フォーク」の誕生

 高校卒業後の浪人中、退職する父が横浜に家を建てたのを機に引っ越し、明治大学に入学した。曲作を続け、東京・渋谷の日本基督教団東京山手教会地下にあった小劇場「渋谷ジァン・ジァン」でフォークのコンサートが開かれている噂を聞き、そこから音楽方面の人々に出会うようになった。バイト先の証券会社にいた鈴木慶一の母親を通じて本人に出会ったのもこの1970年はじめのことだ。

「一般的な言葉でいえば縁とか時の運だよね。いろんな言い方ができるけれど、全部めぐり合わせ」

 鈴木とバンド「アンクサアカス」を結成。後に「はちみつぱい」となり、1971年には「中津川フォークジャンボリー」や「春一番コンサート」に参加。それを見たキングレコードのディレクターにスカウトされ、レーベル「ベルウッド」の第一弾アーティストとしてメジャーデビューが決まった。

 その最初のシングルとして1972年4月25日に発売されたのが、「赤色エレジー」。貧しいカップルの同棲生活を描いた林静一の漫画「赤色エレジー」に感銘を受けて作られたこの曲は、「四畳半フォーク」と呼ばれるジャンルを生み出し、世に広く聴かれることになる。

「中津川フォークジャンボリーでも『赤色エレジー』を歌ったんだよね。キングレコードのディレクターの三浦光紀さんがこういうのをぜひベルウッドのレーベルでやりたいと」

 ソニーのオデッセイや日本コロムビアのマッシュルームなど、レコード会社内レーベルが立ち上げられていた時期でもあった。吉田拓郎や泉谷しげるら、フォークシンガーが次々と現れるなかで、あがたも「フォークソング界の旗手」と取り上げられることが多かった。だが、本人は複雑な思いを抱いていたという。

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「赤色エレジー」が大ヒットのきっかけは、テレビ番組出演だった。第2回【“ちびた下駄”が「あがた森魚」の運命を変えた… 「赤色エレジー」大ヒットの裏側とテクノポップへの転身】では、ヒットに至った経緯や、後に結成したテクノポップグループなどについても語っている。

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