四畳半フォーク誕生前夜 ボブ・ディランとの出会いが「あがた森魚」少年を音楽に導いた

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

 1972年に大ヒットした「赤色エレジー」で知られるシンガーソングライターのあがた森魚(76)。フォークソングブームの一端を担ったこの曲を当時聞いていた人たちにしてみれば、その後、彼がテクノポップを歌ったと聞いて驚くかもしれない。その音楽観はどのように出来上がったのか。

(全2回の第1回)

 ***

ボブ・ディランの衝撃 芥川になりたかった男が音楽へ

 北海道北部の留萌市の生まれ。父が運輸省海運局(当時)の支局長などを歴任していた関係で、その後、小樽、青森、函館に移り住んだ。小樽にいた3~6歳頃の時期にバイオリンを習っていたという。

「習っていたというより習わされていたんですが、これが僕の音楽的原点。子どもだったからとっても嫌だったんだけれど、習ってなかったら音楽にはたどり着かなかった」

 バイオリンの反動で音楽が嫌いな子供だったという。ところが小学5年の夏に、映画「体当りすれすれ娘」の主題歌「黄色いさくらんぼ」を耳にした。「若い娘はウフン」と歌うスリー・キャッツで目覚め、いろいろな音楽を聴くようになった。

「ラジオの深夜放送を聞くようになり、そうするとますますポップスが好きになって。勉強中にかけていると、もうそっちのけでヒット曲を聴くのが楽しくてしょうがなくなって。そこで出会ったのがボブ・ディランの『ライク・ア・ローリング・ストーン』。高校2年生のときだったね。その前の年にザ・ロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』があって、ザ・ビートルズやローリング・ストーンズ、エルヴィス・プレスリーなどいろんなものを漠然と聞いていたけど、ミーハー以上でも以下でもなかった。でもディランを聴いたときに、“黒人の老人が歌うブルースっぽい歌が全米ヒットチャートを駆け上がってるのが不思議だなあ”と思ってた。それが24歳の白人だと聞いて二度びっくりだよね。俺からすると、大好きだった芥川龍之介がいきなり歌を歌い出したみたいな衝撃だった」

 芥川は小学5年時にラジオの放送劇で「蜘蛛の糸」「杜子春」を耳にして以来、憧れの存在だった。函館ラ・サール高校に通い哲学的文学者を志していた少年のベクトルが、音楽に向かい始めたきっかけはディランだったのだ。

次ページ:雪の中の田んぼで自作曲を歌う

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。