「べらぼう」横浜流星だけじゃなかった…構想30年で執念の映画化「フランキー堺」演じた“蔦重”が群を抜いている理由

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命と引き換えに

 つまり川島雄三は、フランキーを主役にして、写楽を映画化しようと考えていたのだ。だが、川島は、難病の筋萎縮性側索硬化症を患っていた。

〈それから二年たって、写楽を主人公とした映画のシナリオにかかろうという直前、川島は急死した。/昭和三十八年六月十一日の朝、私は知らせを受けて芝大門の日活アパートに駆けつけた。(略)枕頭には青蛙房版の『江戸商売図絵』が置かれてあった。/死の直前までこの図絵を見つめながら、彼は、その独特の創造的な映像へのエネルギーをかきたてていたのか、来たるべき写楽との格闘のために――私は、胸が詰った。/その図絵は、私の書架に引き取られた〉

 享年45の若さだった。このあと、やはり写楽の映画化を切望していた名匠・内田吐夢監督と知り合い、意気投合するのだが、その内田監督も、1970年に逝去してしまう。その間も、フランキーは、資料収集や取材を重ね、写楽研究に没入していた。

〈何らかの形で創りあげた「写楽」を、いつか必ず二人の墓前に供えたい、そうでなければ、この蟻地獄的研究に決着は来ないぞ、私は、そう心に決めていた〉

 かくして、1995年、フランキー堺の原案・企画総指揮で、映画「写楽」(篠田正浩監督)が完成する。だがこのころ、フランキーはすでに60代後半。写楽を演じるには、年齢的に無理だった。そこで、写楽は真田広之が演じ、フランキーは準主役の蔦重を演じたのである。

 この映画について取材したという、ベテランの映画ジャーナリスト氏は、こんな思い出があるという。

「当時、フラさんは、すでに肝不全で、かなり体調が悪かったんです。映画『写楽』での蔦重を観ても、顔が黒ずんでいて痩せており、かつてのふっくらした、愛敬あるフラさんの面影はありません。手鎖をされるシーンなど、痛々しかったですね。しかし、この映画のために会社までつくって私財を投じ、30年かけて製作までこぎつけただけあり、目つきだけはギラギラしていて、まさに執念の蔦重といった感じでした」

 そして、映画公開の翌1996年6月7日、フランキーは、大阪のホテルで吐血(大阪芸術大学教授をつとめていた)。緊急入院するが、3日後に肝不全で逝去するのである。まさに命と引き換えに蔦重を演じたのであった。

写楽を巡るナゾ

 そこまでして追い求めてきた写楽とは、フランキー堺にとって、どういう人物だったのだろうか。なにしろ、寛政年間に、独特の大首絵で十カ月だけ作品を発表し、忽然と消えてしまった“謎の絵師”なのだ。

「一般には、阿波の能役者・斎藤十郎兵衛の変名だとの説が有力のようですが、フラさんの見立ては、“写楽は写楽”説。1985(昭和60)年に、『オール読物』に発表した小説『写楽道行』では、子どものころから蔦重の店〈耕書堂〉で下絵職人をさせていた〈長七〉なる若者だとしています。その才能を、絵師で蘭学者の司馬江漢が見出し、デビューすることになっています。また、後年の映画『写楽』では、大道芸人の〈とんぼ〉の別名ということになっています」(映画ジャーナリスト)

 このように、フランキー自身、いくつかの説を唱えていたようだが、共通するのは、“十カ月で消えてしまう”理由である。

「どちらも、女郎がらみです。足抜け、心中といった、のっぴきならない状態に追い込まれ、絵師どころではなくなってしまう。特に映画『写楽』では、蔦重のもとを離れた歌麿(佐野史郎)が、写楽の才能に嫉妬して、引退に追い込む設定でした」

 フランキー自身、自伝のなかで、こう綴っていた。

〈たかだか二百年前に、確かに生きていた一人の男なのに、なぜ姿を見せてくれないのだ。いや、生きざまを見せろというのではない。きみの片鱗だけでも、感じさせてくれと言っているのだ。(略)しかしながら私も生身の人間である。精も根も使い果し、深夜の書斎でペンを投げだし、内田吐夢監督の遺品の羽子板をとって振ったりすることも、しばしばであった。その度に錆びた鈴は、これ以上写楽と付き合っていたら、そっちの生命が危ないよと言わんばかりにチリ、チリ、とかすかに鳴り続けた〉

 この“予言”は、3年後、現実のこととなってしまう。残された命を燃やし尽くすようにして蔦重を演じながら、フランキーは、写楽を追い求めた。

 今後、大河ドラマ「べらぼう」で、横浜流星演じる蔦重は、写楽と、どのようにして出会うのだろうか(毎週見ているファンにとっては、すでに想像がついていることと思う)。

 前述、フランキーが書いた小説『写楽道行』の最後に、こんな文章がある。

〈写楽をいつまでも謎のままにしておくのが何よりの供養だとする蔦重の口止め…(略)…描いたものさえ残っていりゃあ、今更、誰が描いたの、すべったのと詮索するなんざぁ野暮の骨頂だよ…(略)〉

 1795(寛政7)年1月を最後に〈東洲斎写楽〉の名が消えてから、今年で230年となる。

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部

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