「べらぼう」横浜流星だけじゃなかった…構想30年で執念の映画化「フランキー堺」演じた“蔦重”が群を抜いている理由

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蔦重を演じた俳優たち

 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」は、いまひとつ、視聴率がふるわないようだ。「女郎だの身請けだの、子どもに説明できない」「蔦重なんて、知らない」「チマチマした出版の話で、スケール感がない」など、いろいろ不満の声が聞こえてくる。3月2日放映の第9回では、花魁の“仕事”中の姿が登場し、一瞬、お茶の間が凍りついたのではないだろうか。だがそれでも、おおむね、主役の横浜流星は、好評のようだ。

 彼が演じる蔦屋重三郎=蔦重は、いまでいうと、「編集者」「出版経営者」「書店主」をすべて兼任したような、いわゆるマルチ・クリエイターである。歌麿や写楽など、多くの絵師、戯作者を売り出した。大河ドラマの主人公といえば、天下国家にからむような人物が多い。それだけに、蔦重のような市井の主人公は珍しく、演じるほうも、それなりに工夫がいるようである。

 実は、蔦重を演じた俳優は、主な映画・舞台だけでも、今回の横浜流星で9人目になる。

 最初は、終戦直後、1946年の映画「歌麿をめぐる五人の女」(溝口健二監督)で演じた、高松錦之助(1898~1979)。戦前のサイレント時代から活躍している脇役俳優で、特に戦後は東映時代劇のほとんどで顔を見る、大ベテランである。ちなみにこの映画で歌麿を演じたのは、六代目坂東蓑助。フグ中毒で急死する、のちの人間国宝・八代目坂東三津五郎である(当代坂東巳之助の曽祖父)。

 1981年、新藤兼人監督が、念願の映画「北斎漫画」を撮った。緒形拳が北斎を怪演し、樋口可南子が、一糸まとわず巨大蛸とからみ合うシーンが話題となった。ここで蔦重を演じたのは、劇団青年座の大塚国男(1933~1989)。洋画TV放映の吹き替え声優を多くこなしたひとだった。

 以上2人の蔦重は、あくまで脇役だが、舞台「きらら浮世伝」(横内謙介脚本)は、蔦重が主役である。いままでに4人が演じてきた。初演は1988年、いまはなき銀座セゾン劇場にて。蔦重役は、当時の中村勘九郎=のちの十八代目中村勘三郎。幕府の弾圧や、同業者のしがらみをくぐりぬけ、蔦重が若き絵師や戯作者たちを育てていく、青春群像劇であった。歌麿を原田大二郎、恋川春町を川谷拓三、客を遊ばせる女お篠を美保純が演じた。

 この「きらら浮世伝」が、この2月、歌舞伎となって37年ぶりに再演された。蔦重を演じたのは、当代中村勘九郎。父子二代にわたっての蔦重である。そして2003年と2020年には、横内謙介氏が主宰する劇団扉座で再演されている。それぞれ山崎銀之丞と六角精児が蔦重を演じた。

 だが近年でもっとも印象にのこる蔦重は、2021年の映画「HOKUSAI」(橋本一監督)で演じた、阿部寛だろう。なにしろ、あの面構えと体格である。特に前半は、ほとんど主役級の出番で、「おめえ、うちで描いてみねえか。一から育ててやるよ」と、まるでどこかの組の“親分”のような貫禄であった。

 以上で、横浜流星を含めて8人の“蔦重役者”をご紹介した。だがやはり、後半生をかけて入れ込み、命と引き換えのようにして蔦重を演じた役者を忘れるわけにはいかない、

 ジャズ・ドラマーで俳優の、フランキー堺である。

「冗談音楽」の元祖

 フランキー堺(1929~1996)といっても、いまの方々には、もう、なじみが薄いかもしれない。ベテランの芸能ジャーナリスト氏に、簡単に紹介してもらおう。

「フラさんは、本名・堺正俊。慶應ボーイだった学生時代から、ジャズ・ドラマーとして進駐軍キャンプで演奏していました。1954年に、コミック・バンド〈フランキー堺とシティ・スリッカーズ〉を結成し、日本中を巡業します。“うがい”をしながら歌ったり、『かっぽれ』をサンバにしたりなど、抱腹絶倒の冗談音楽で一世を風靡しました。アレンジを担当したのはフラさんとの名コンビ、作編曲家の岩井直溥。後年、“吹奏楽ポップスの父”と称され、日本の吹奏楽振興の大功労者となるひとです」

 このバンドに、若き日の植木等(ギター)、谷啓(トロンボーン)、桜井千里(当時の名前=本名、ピアノ)がいた。そして、見習いバンド・ボーイ格で出入りしていたのが、ハナ肇(ドラムス)だったという。

「ある日、ハナは、植木・谷・桜井らを“引き抜いて”、〈ハナ肇とクレージーキャッツ〉を結成するのです。フラさんお得意の冗談音楽をさらに発展させ、ちょうどはじまったTV時代の波にのって、大スターとなりました。残されたフラさんは、役者の道へ進みます。映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、1957年)、『モスラ』(本多猪四郎監督、1961年)、『社長』シリーズ(1962年~)などで、高い評価を得ました。また、TVドラマ史上にのこる名作で、映画にもなった『私は貝になりたい』(1958年)は、芸術祭文部大臣賞を受賞しています」

 そんなフランキーが、自伝『芸夢感覚 フランキー人生劇場』(1993年、集英社刊)のなかで、気になる一文を寄せている。

〈昭和四十年には、私は独立して「写楽」映画化のための製作を主としたプロダクションを設立し、写楽への本格的な傾向と研究は、すでに始められていた〉(以下、引用は同書より)

 このプロダクションが「堺綜合企画」。映画が、1995年に公開される「写楽」(篠田正浩監督)である。昭和40(1965)年に会社設立して以来、30年越しの執念の企画であった。

 しかしなぜ、フランキー堺は、それほど写楽に入れ込んだのだろうか。そして、いかにして、蔦重を演じることになったのだろうか。

 自伝などの記述をまとめると、以下のようなことがあったようだ。

 映画「幕末太陽傳」は、キネマ旬報ベスト10で第4位となるなど、高い評価を受けた。この映画で“居残り佐平次”を演じたフランキーも、コメディアン俳優としての地位を確立した。

 昭和36(1961)年、川島雄三監督は、フランキーに、次回作の構想を打ち明ける。

〈「フラさん。次の作品はね……、写楽です。(略)『寛政太陽伝』という題の作品になるだろうと思いますが、フラさん。『幕末太陽伝』の居残り佐平次のパートIIだと思ってはいけないのです。“首が飛んでも動いてみせらあ”という佐平次のバイタリティの数倍も困難な役が、写楽です。生没年まったく不明の謎の人物ですが……(以下略)」〉

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