【べらぼう】小芝風花「瀬川」を身請けした鳥山検校 大富豪になった理由と悲惨すぎる末路
200億円の財産があったともいわれる
「検校」とは名前ではなく役職名で、室町時代以降、当道座という男性盲人の互助組織の最高位がそう呼ばれた。当道座には、平曲や地歌、筝曲の演奏家のほか、あんまや鍼灸などに携わる人たちが属し、江戸時代には幕府から公認され、自治の権限や一定の裁判権があたえられた。要は、幕府の保護と統制のもと、こうした職業を独占できていたのである。
ただ、実際、当道座にはすぐれた演奏家が多かったようで、邦楽が発展する大きな原動力になり、各藩に専属の音楽家として召し抱えられるケースもあった。
最高位の検校の下に、別当、勾当、座頭があり、さらに細分化されて73の官位に分かれていた。これらは、いわば盲人に地位と名誉を保証するためのものだった。だが、最低位から一歩一歩上に進んで最高位の検校になるまでには、長い修業期間を要した。そこで、金銭で官位を買うことも認められていたが、それには700両以上は必要だったともいう。このため元禄(1688~1704)のころから幕府は、彼らが高利で金を貸すことを認めた。
この貸し付けは座頭金、または宮金などと呼ばれ、幕府からの禄が少なく貧乏暮らしを強いられている旗本や御家人、あるいは財政的に窮している大名家などが貸し付けの対象になり、暴利を得た検校も多かった。とりわけ鳥山検校は、こうした高利貸しで巨富を得たことで知られ、日本橋瀬戸物町に家を構え、一説には20万両(200億円程度)の財産があったともいわれる。
借金の取り立てに際しては、返済できなければ土地や財産まで取り上げたり、自死寸前まで追い詰めたりと、かなり苛烈なこともしたといわれる。ドラマで蔦重が瀬川に説いたのは、鳥山検校のそういう面についてである。ともかく、そうして稼いだ金を吉原での豪遊に注ぎ、ついには瀬川を身請けした鳥山。安永4年(1775)のことで、延享2年(1745)の生まれだから、ちょうど30歳ほどだった。
すべてを奪われ追放された
だが、五代目瀬川を身請けして3年後の安永7年(1778)、鳥山検校の人生は暗転する。きっかけは旗本の森忠右衛門が妻らとともに逐電したことだった。一時は自害を図ろうとした森だが、息子に説得されて思いとどまった末に姿を消し、結局、出頭している。町奉行による取り調べの結果、高利貸しによる多額の負債をかかえていたことがわかり、とりわけ盲人による法外な高利貸しの実態が明るみに出ることになった。
前述したように、盲人は幕府から優遇され、彼らが高利貸しに投じていた原資にも、幕府の公金から支出されているものがあった。幕府としてもさすがにこれを放置することはできず、検校らが摘発されることになった。
こうして鳥山検校以下、8検校が捕らえられた。翌安永8年(1779)には、獄死した名護屋検校を除く7検校に追放処分が下されている。
とくに鳥山検校は、吉原での度重なる豪遊と、高額での瀬川の身請けについても糾弾されることになった。こうして全財産没収のうえ、武蔵(東京都、埼玉県、神奈川県東部)、山城(京都府南部)、摂津(大阪府北西および南西部、兵庫県東部)、遠江(静岡県西部)から追放され、検校職を解かれ、当道座も除名になってしまった。
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