「過激派による葬列妨害が」「政府が頭を抱えたのはブッシュ大統領の席次」 皇室担当記者が見た昭和天皇「大喪の礼」全内幕

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 平成元年2月24日、崩御した昭和天皇の「大喪の礼」が執り行われた。空前絶後の規模となった式典が開催されるまで、「政教分離」の原則や参列者の席次を巡ってかんかんがくがくの議論が沸き起こる。「昭和の終焉(しゅうえん)」を実感させた葬儀の内幕を、当時の皇室担当記者・斉藤勝久が振り返る。

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 昭和天皇は昭和64年(1989年)1月7日、87歳で亡くなった。それから49日目に行われた葬儀「大喪の礼」は、164カ国の元首らが参列する史上最大規模の葬礼となる。

 政府は天皇崩御の翌日の1月8日、国の儀式として「大喪の礼」を2月24日、新宿御苑で行うことを正式に決めた。

 1月11日、そこへアメリカから大きなニュースが飛び込んできた。ブッシュ次期大統領(父ブッシュ)の大喪の礼参列が決まったのである。同20日に就任する新しい米大統領の来日で、東京を舞台に活発な弔問外交が行われることが確実となり、世界第2位の経済大国だった日本に要人の弔問使節を送る国がどんどん増えていく。

 素早い訪日決定は新政権の日米関係重視をアピールするもので、ブッシュ氏は記者団の質問に答え、亡き陛下をこう称賛した。

「天皇陛下は日米の強固な関係を築く上で、(終戦直後に日本に進駐した連合国軍最高司令官の)マッカーサー元帥の元に行って会談した日以来、大変な尊厳を持ってその役割を果たされた。私が大喪の礼参列によって重視したいと思ったのは過去ではなく、現在および未来である」

 それでは、宮中独特の儀式はどのような手順で進められたのか。

「霧の中にいるように幻想的な空間」

 陛下のご遺体は1月8日夕、一般の納棺に当たる「御舟入の儀」でヒノキの棺(ひつぎ)に納められ、お住まいの吹上御所1階の居間に安置された。翌9日夕にはその柩(ひつぎ)を一回り大きい棺に納める儀式が続く。新天皇ご夫妻と皇太后さまが最後のご対面をして、柩は密封された。

 その後、亡き陛下の柩は19日夜、月明かりの下で、思い出深い御所から宮殿に移された。葬送の時まで安置しておくのが「殯宮(ひんきゅう)」である。それは国の重要な儀式が行われる、最も格式が高い宮殿中央に位置する正殿「松の間」に置かれた。すでに二重の柩に納められているご遺体は、さらに一回り大きい長さ2.2メートル、重さ100キロ近いヒノキの棺に納められる。三重となり重さ400キロとなった柩は、殯宮の奥(内陣)にある高さ75センチの厚畳の上に安置された。

 そして、一般国民が亡き陛下にお別れする「殯宮一般拝礼」が同22日から宮殿の東庭で始まる。これまで一般参賀の際に亡き陛下がお立ちになった位置には大きな遺影が掲げられ、寒風や冷雨の中、3日間で約34万人が拝礼した。

 松の間の殯宮では、天皇、皇族、旧皇族ら親族や、宮内庁・皇宮警察の関係者らが交代で参列して柩を見守り、亡き陛下をしのぶ「殯宮祗候(しこう・そば近くで仕えること)」という行事が、昼夜を問わず連日続くのだ。

 筆者は宮内記者会の代表の一人として同25日夕に参列した。すっかり日は暮れており、床と壁などが白い布で覆われた殯宮はほの暗く、一礼して中に入ると、そこは霧の中にいるように幻想的な空間だった。柩のある内陣を囲む外陣(げじん)の前でまた一礼して着席すると明かりは消され、柩のそばの明かりだけとなる。戸は閉め切られ、参列者15人が40分間、わが国の最も古い葬儀の形とされる殯(もがり・仮安置された遺体のそばで別れを惜しみ、死者の復活を願いつつも、その死を確認する)をしばし体験することになった。

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