和田誠&篠山紀信と訪れたフランスで…横尾忠則が振り返る“恐怖体験” 「肉屋の巨大冷凍庫に連れて行かれた」

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 1964年東京オリンピックの年、生まれて初めて海外旅行をしました。ヨーロッパからオリンピックに出場する選手を乗せた飛行機が羽田に着くと、その飛行機が帰国する時は空っぽになる。その空っぽの飛行機を利用して3週間ばかりのヨーロッパツアーが計画されたのです。3週間後に選手を迎えに来るその飛行機に乗ってツアー客は帰国するという実に抜け目のない商業的発想です。

 そんな企画に僕は乗ったのですが、今考えるとゾッとするほど高いツアー料金でした。飛行機代と現地でのバス料金やホテル代、食事代全額で確か75万円だったと思います。60年代のあの時代は現代のツアー料金よりも何倍も高く、今の方がもっと安い料金で行けるのではないかな。

 父が死んで郷里の家を売ったお金が80万円ほどあって、その大半を旅費に使ってしまったのだが、それまで勤めていたデザイン会社を辞めたばかりで、ほとんど無職状態でした。その日暮しのようなどん底生活の中で、よく妻が海外旅行に行かせてくれたものだと今になって感心するのですが、元々は母の所持金だったのではなかったんじゃないかな。

 このチャンスを逃がしたら多分一生海外旅行には行けないだろうと思っていたので何んとしても行きたかった。誰か旅の連れが欲しいと思って和田誠君を誘った。宇野亞喜良さんにも声を掛けたが、そんな大金はないという理由で彼は参加しませんでした。代わりに和田君と職場が同じだった篠山紀信君を和田君が誘って3人で行くことになったのです。現地では3人で行動することも多かったが、特に和田君と僕はツアー中は彼といつも二人部屋だったので、どこへ行くのも行動は一緒でした。

 ニースのホテルに着いた日、やはり和田君と街に出ると、一軒のスーベニアショップで買物中に彼を見失い、独りになってしまった。店の中も店の周辺もどこを探しても和田君の姿がない。とにかく僕は彼を必死で探した。なぜ必死だったかというと、僕はホテルの場所も、名も覚えていなかったので完全に迷い子になってしまったからです。

 人に聞くと言っても何を聞いていいのやらわからない。ニースの海岸近くのホテルだったと思うのですが、ホテルに着くなり外出してしまったのでホテルの建物もその辺りの様子も何ひとつ覚えていない。その辺の店に片っ端から入って和田君を探したけれど、彼の姿はどこにもない。

 でも確かホテルは海岸に面していたと思い、その辺りへ行こうとするのですが、街の内部に入ってしまったのか、海岸がどこにもない。英語もフランス語も出来ない。「海は?」と英語で「sea?」と言ってみるが、相手はフランス人でさっぱりわからない言葉が返ってくるだけでした。

 その時フト、フランス語で海はラ・メールと言ったように思って、道を歩く人に「ラ・メール?」と話しかけるのだが誰も知らんぷり。その内一人の男が、「うん、わかった、付いて来い」と言わんばかりに僕を誘ってくれました。ところが着いた所は海岸ではなく、一軒の肉屋でした。

「ノー、ノー」と言ったら、「まあ入れ」と言って肉屋の奥の巨大な冷凍庫に連れて行かれたのです。巨大な肉が天井からいくつもぶら下り、どうして僕を肉の冷凍庫に連れて来たのか知らないが、僕はともかくここを逃げるようにして出たのです。

 警官を探しても見つからない。もう本当に泣きたいどころか、死ぬんじゃないかとさえ思いました。

 と、その時、向こうからやってきた日本人がいました。誰だか知らないが、僕と同じツアーのひとりのように思えて声を掛けたのです。するとツアーの100人ぐらいいたメンバーの中の一人で、宿舎は同じホテルでした。

「助かった」

 ホテルのロビーで待機していると和田君が帰ってきた。人と会ってこんなに嬉しい経験をしたのは初めてだった。その日から、どこに行くのもホテル名を書いた紙切れをお守りのように肌身離さず持ち歩いていたのと、金魚のフンのように和田君にピッタリくっついて、行動することにしました。

 旅行者の一番大事なものはパスポートですが、僕にはそれ以上にホテルの名前とその所在地の住所が重要でした。子供の頃、一度母に連れられて、隣町の金比羅神社の祭に行って迷子になって、世界が真暗になって人混みの中を大声をあげて走り廻った遠い昔の記憶がありますが、迷子になると、いくら大人になっても急に幼児にもどってパニックになってしまいます。

 これから用心しなければいけないのは、いつも自分の名前と住所を書いたものを持ち歩かなければ、いつ徘徊老人になって、誰かのお世話にならないとも限らない。

 あゝ怖かった!

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2025年3月6日号掲載

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