【60歳男性の回想】バブル崩壊の勢いでプロポーズしたけど… 真実を知って「萎えた」モデル彼女の正体

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前後編の前編/後編を読む:60歳男性が「うつ」になるほど後悔している「かつて捨てた恋人」の秘密と遅すぎた再会

 人生半世紀も生きてくると、周囲で友人知人が急逝するという事態がちらほら出てくる。そして還暦ともなれば、そういった話はもっと自分のこととして身近になる。後悔しても遅いのだと体に染みこむように思う時期かもしれない。

「そうですね、本当に。気づいたときに行動するべきだったと、今になってつくづく感じます」

 三原好弘さん(60歳・仮名=以下同)は、ようやくうつ状態が少しよくなって人に会えるところまで回復したそうだ。顔の色艶もいいし、半年前まで「メンタルを病んでいた」とは思えないが、ときおりなんとも言えないせつない目をするのが気にかかった。

下町育ち、好景気に浮かれて

 好弘さんは、東京下町の生まれ育ちだ。両親は商店街で食品店を経営しており、店の裏が自宅になっていた。隣人と窓からしょう油や味噌を貸し借りするような住宅密集地だったが、なにも考えずに楽しい子ども時代を送ったと彼は言う。

「人との距離感が近いんですよ、僕。大人になってから、なんだかみんなと距離感が違うと思ったことがあります。実家にはよく近所の人がいましたね。学校から帰ってくると、親は店にいて、近所のおばちゃんがなぜか夕飯の支度をしていたりして……。おばちゃん、うちの冷蔵庫から勝手にいろいろ使って、自分の家の分の夕飯まで作ってた(笑)。そういうところで育つと、人との距離感なんてわからなくなるもんです」

 子どものころの話をすると目尻が下がって、人懐こい笑みが浮かぶ。高校は都立高へ、大学は1年浪人して私立へと進んだ。そのころ近所にスーパーマーケットができて、商店街は痛手を受けた。もう少し早くバブル時代が来ていれば、彼の育った町などは地上げで相当もうかったはずだったのではないかと彼は言う。

「ただ、就職はしやすかった。僕なんてたいして優秀でもないし、目立った活動もしなかったけど、そこそこの企業に入れました。就職してからバブルがやってきて、楽しい社会人生活だった」

 なんだかわからないけど景気がいい、とにかく毎日夜遊びをし、それでいて会社はもうかっていたみたいだったと好弘さんは言う。ディスコができたと聞けば駆けつけ、湾岸地域の新しいレストランができれば先輩や同僚たちと出かけていった。

「先輩たちはだいたい女の子と一緒に出て行ってしまうんですが、帰りには誰かが支払いをすませていてくれた。何だったんですかね、あの時代は」

バブル崩壊で一家離散

 彼もたくさんの“かりそめの恋”をした。まだ携帯電話もない時代である。ゆきずりの関係を繰り返した。もちろん、この時代だってまじめに恋愛をしていた人もいれば、仕事が多忙で遊びどころではない人もいたはずだ。だがとにもかくにも、世の中が浮かれていた。

「それからすぐですよ、バブル崩壊したのは。いちばんその被害を受けたのは実家だったと思う。実家はバブルのころに隣があいたからと店を広げたんですよ。銀行から借金して。借りてくれって銀行が来るから、もうちょっとおしゃれな店にしようと思ってとオヤジは言ってましたね。おふくろは大反対していました。地道にやってきた店だから、このままでいいって。でもオヤジも浮かれていたんでしょう。バブルは崩壊し、借金は返せなくなった。そこから両親はもめごとが増え、ついには離婚ということになってしまいました」

 彼が29歳のときだった。3歳違いの妹はすでに就職していたが、6歳違いの弟は大学院に入ったばかり。大人になっていたとはいえ、きょうだいは両親の離婚に少なからず衝撃を受けた。

「ふと気づいたら商店街は歯が抜けたようになっていました。店を畳んで引っ越していく人もいれば、いつの間にかいなくなっている人もいた。あの家は夜逃げしたらしいと噂が飛んだり、心中事件を起こした一家もあったとか……」

 彼も実家近辺を離れた。そのまま父は行方がわからなくなり、妹と弟はそれぞれひとりで暮らし始めた。弟は大学院を辞めて速やかに就職した。バブル崩壊の余波がまだ現実となっていないところでなんとか就職もできたようだ。好弘さんは母と暮らすことを選んだ。

「しかたなかった。母は嘆いてばかりいて、とてもひとりで生きている状況でもなかったので。母を扶養するという名目があったので、住宅手当も出たから、僕としてはなんとか仲よくやっていこうよと励ましました。ただ、それから母は愚痴っぽくなりましたね」

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