超多忙でも「みのもんた」が銀座に通い続けた理由…“不遇の時代”に実父がポツリとつぶやいた「ありがてえ」の意味
今月1日、昭和、平成を代表する名司会者・みのもんたさん(本名・御法川法男)が亡くなった。享年80歳。1月中旬、都内の焼き肉店で食事中に肉を詰まらせ救急搬送。その後、心肺停止状態が続いていたという。
かつてギネス認定されるほどいくつものレギュラー番組を抱えたみのもんたさんは豪放磊落な飲み方でも知られる。日刊ゲンダイ編集委員として数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけたコラムニストの峯田淳さんが綴る、みのさんの豪快なライフスタイルの原点とは――。
(以下、2025年2月15日配信の「デイリー新潮」記事を元に加筆・再構成しています。肩書や年齢などは当時のままです)
【写真】実に若い! 文化放送に入社前、美青年(?)だったみのもんたの貴重な1枚!
4.5軒回って車の中で脱力
酒豪、豪放磊落な飲み方で知られるテレビ界の有名人は誰かと訊かれると、真っ先に思い浮かぶのはやはり、みのもんた。それに異論を挟む余地はないだろう。
みのと文化放送の後輩アナウンサーの梶原しげるには「涙と笑いの酒人生」というコーナーのインタビューにご登場いただいた。
みのが銀座で豪遊する様子を梶原はこう語った。「日刊ゲンダイ」(2019年2月14日)から引用する。
「店を回るペースが速くてね。席に着いて、飲んでしゃベってたと思ったらほんのちょっとで『じゃあ』と言って席を立ち、また次の店に移動する。そうやって一晩で4、5軒回り、最後はお抱え運転手の待つセンチュリーの中でグテッと脱力しちゃう」
飲んでいるうちに話が盛り上がった時には、梶原はみのと一緒に、服を脱いだこともあったとか。
しかし、これは人気司会者として世に認められてからの姿であって、売れていなかった頃の話を聞くと、他人にはうかがい知れない苦労人の素顔が見えてくる。
みのは1967年に文化放送にアナウンサーとして入社した。「セイ!ヤング」の司会者として人気になったものの、人事異動で営業部に回された。この理不尽な会社のやり方に不本意だったみのは35歳の時に辞表を叩きつけ、フリーになる。
だが、まだまだ一人前とはいえない若造に、誰もハナを引っかけない。逗子に買った建売住宅のローンの支払いに窮し、夫人は実家の冷蔵庫から食べ物を持って帰って来るような日々が続いた。
もう限界。そんな時に父親から「うちの会社で働かないか」と誘われた。みのの父・御法川正男は水道メーターのメーカー、ニッコクの社長。渡りに船とばかりに入社、平社員として営業マン兼運転手からスタートした。給料は文化放送時代の18万円から12万円に減った。それでも定期収入があるのは助かる。
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