「月15万円稼いでいればよい方」「高齢者は引きこもって生活」 日本で暮らすウクライナ避難民のリアル 「支援への熱は冷めきっている」

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「富士市役所のサポートに助けられました」

 実際に日本で避難生活を送っているウクライナ人に聞いてみた。彼らとは通訳を介してのやりとりになる。

 ウクライナ南部の州都ヘルソンは、一時はロシアに占領されたもののウクライナ軍が奪還。しかし、いまもロシア側からの砲撃が絶えない。アナトリー・コレスニクさん(71)は、そのヘルソンで船のエンジニアとして働いていたが、侵攻後まもない4月に、次男を連れて日本に逃げてきた。家族は妻と息子が2人。コレスニクさんが身の上を語る。

「長男のアレクセイ(1979年生まれ)は開戦後に志願し、ウクライナ軍の砲兵部隊の兵士として戦闘に参加していたのですが、極寒の戦地に長くいたことや、ロシア軍の化学兵器による攻撃の後遺症で約1年前に除隊しキーウで闘病しています。私の妻ヨーコがアレクセイの側で面倒を見ています」

 コレスニクさんは、日系ウクライナ人の妻のルーツが日本ということで避難先として日本を選び、静岡県富士市に住む妻の友人が保証人となって同市で避難生活を送ることになった。

「私は日本に来たことがありませんでしたが、富士市役所のサポートに助けられました。私は英語ができるので、役所が通訳を付けてくれて、書類の手続きなどを済ませることができた。それ以外にも、日本での生活に慣れるまでサポートしてくれました」

 来日当初は、市が市営住宅を無償で提供してくれた。しかし、2年を経過すると家賃を負担しなければならず、昨年10月に月額5万4000円の今のアパートに引っ越した。

 生計は日本財団からの支援2人分の年間200万円と、市内の製紙工場で働く次男ドミトリー・コレスニクさん(40)の給料で立てている。彼はウクライナでは大学などでサックスの演奏やロシア語とウクライナ語を教えていた。

「友人は皆戦死した」

「私は先天的に目の障害を持っており、兵士に志願しましたが兵役に就くことはできませんでした」

 と、ドミトリーさんは振り返る。彼らも母国から脱出するのに苦労した。

「戦争が始まりヘルソンがロシアに占領されると、60キロ離れたミコライウまで15時間かけて逃げました。至るところに検問所ができて、全ての動きをロシア軍にチェックされるようになった。検問所では、親戚や家族に兵士がいないか詰問され、捕まったら終わりです。兄が兵士になっていたために私はとてもリスキーな立場でしたが、何とかやり過ごしました。故郷の多くの友人が従軍し、戦死しています。私と一緒に兵士に志願した友人も、もう皆戦死しています」

 現在の職場は、市役所から紹介された。給料は月額で二十数万円ほど。他に毎月3万円の住宅補助が出る。

「仕事内容は、車で会社を回って古紙の回収やトイレットペーパーを納入したりしています。日本財団からの支援もあり(今年3月まで)、ウクライナの母と兄に月10万~20万円、多いときで30万円ぐらい仕送りできたけど、今後はそれが難しくなる。日本財団は帰国支援すると発表しましたが、ヘルソンに帰れるはずがない。まだ攻撃が続いていて危ないし、砲撃の影響で街はほとんど残っていません」

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