【べらぼう】小芝風花が演じる瀬川に“1億4000万円” 金持ちが引き取る「身請け」という日本だけの特殊事情
日本の女郎がふつうに結婚できた理由
ところで、身請けした男性は、女郎を自分の妻や妾にすることも多かったが、妾はともかく、女郎を本妻とするケースは、欧米人から見ると信じられないことだったようだ。
長崎のオランダ商館に滞在した医師、エンゲルベルト・ケンペルが、当時のヨーロッパでは娼婦は賎民として差別されていたのに、日本では普通に結婚していたので驚いた、という記録が残っている。また、『江戸参府随行記』に、女郎として働いた女性が差別のまなざしを向けられることなく、ふつうの結婚をしていることを「まったく奇異」だと記している。
欧米人から見ると奇異に映った日本人の女郎へのまなざしは、すでに述べた女郎の立場に起因する。欧米では、娼婦という職業は自分で選ぶものだった。選びたくて選ぶ人は少なく、やむにやまれず娼婦になるケースがほとんどだったとはいえ、基本的には人身売買の結果ではなかった。そして、そういう女性を一般家庭に受け入れることはまずなかった。
一方、当時の日本の遊郭には、吉原にかぎらず、自分の意思で女郎の道を選んだ女性はほとんどいなかった。当時の人々にとって、女郎とは自分の身を犠牲にして家族を救った親孝行者であった。したがって、女郎がことさらに差別されることはなく、男性のあいだでも、遊郭の女郎など妻にできないという意識は希薄だった。
だから、奴隷さながらにあつかわれた女郎たちの境遇はひどいものだったが、年季さえ明ければ、ふつうの結婚を遂げる道が開けていた。そして、「苦界」から一挙に抜け出し、年季証文を買い取ってくれるだけの財力がある男性に嫁ぐ道につながったのが、「身請け」だったのである。
身請けされても生じた問題の数々
ただ、身請けにかかる費用は女郎屋の楼主の言い値で決まり、女郎の位が高いほど金額も高くなった。それを払える人物となると、かなりかぎられた。金持ちに身請けされ、その妻になったものの、「女郎上がり」であることを理由に姑や小姑にいじめられ、追い出されたケースもあったと伝わる。
また、身請けした男性の素性に問題がある場合もあった。五代目瀬川のケースは典型だろう。彼女を身請けした鳥山検校だが、検校とは盲人の最高位を指す役職名で、実際、彼は当道座という盲人組織のトップにいた。このころ盲人は幕府から手厚く保護され、高利貸しが許されていた。このため、あんまや鍼術で稼いだ金を高利で貸し付ける盲人が少なくなく、鳥山検校もそうして荒稼ぎをしていたから、1,400両も支払うことができたのである。
しかし、3年後の安永7年(1778)、鳥山検校は高利貸しの不正が発覚してほかの盲人たちと一緒に処罰され、財産を没収のうえ江戸から追放されてしまった。つまり、瀬川は晴れて吉原から抜け出てわずか3年で、食い扶持を失ってしまったというわけだ。
その後の瀬川の消息については、たしかなことはわからない。ただ、武士の妻になった、大工の妻になった、という説もあり、女郎が差別されていなかったことを考えれば、あり得る話だと思われる。それが本当だとすれば、高利貸しのもとで暮らし続けるより、幸福だったのではないだろうか。
ただし、多いときには7,000人もいた吉原の女郎の多くは、身請け話など縁がなかった。その場合、「苦界十年」から抜け出す方法は「足抜」、すなわち逃亡するしかなかった。
しかし、周囲を「お歯黒どぶ」という水堀と黒板塀で囲まれ、出入口は大門のみで、門脇の会所で女郎の逃亡に目を光らせていた城郭さながらの吉原。逃げるのは容易ではなく、見つかれば身ぐるみをはがされ、両手両足を縛って天井から吊るされ、竹棒で殴りつけられた。
女郎にはひどい境遇の裏返しとして、ふつうに結婚し、ささやなか幸福を手にする道は残されていた。だが、その道はきわめて狭き門で、多くの女郎にとって吉原は、どこまでも苦界だったのである。
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