【べらぼう】小芝風花が演じる瀬川に“1億4000万円” 金持ちが引き取る「身請け」という日本だけの特殊事情

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盲目の高利貸しに身請けされた瀬川

「花の井」と「瀬川」。同一人物である。NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』の第8回「逆襲の『金々先生』」(2月23日放送)で名前が入れ替わった。吉原の女郎屋、松葉屋の花魁で、小芝風花の妖艶な演技が視聴者に評判の「花の井」が、松葉屋に伝わる「瀬川」という名跡を継いだのだ。

 時は安永4年(1775)、主人公の蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)は、吉原のガイドブックである「吉原細見」を、はじめて自分が板元(出版元)となって刊行した(「吉原細見 籬の花」)。有名な名跡が襲名されたときは「細見」がよく売れるというので、花の井は幼馴染で恋愛感情もいだいている蔦重に花を持たせようと、松葉屋に伝わる名跡を継いで五代目瀬川になった、というのが『べらぼう』の設定だった。

「瀬川」は史実のうえでも松葉屋の名跡だった。五代目も実在した。ただし、その前半生についてはほとんどわかっておらず、蔦重との関係等はフィクションだが、この時期に襲名されたのは史実である。また、『べらぼう』の第9回「玉菊燈籠恋の地獄」(3月2日放送)では、瀬川は鳥山検校(市原隼人)という盲目の男に身請けされることを決心する。心を決めるにいたる経緯はフィクションだが、彼女が鳥山検校に身請けされたのは史実である。

 しかも、この身請け話は当時、江戸中の評判になった。鳥山検校が支払った金額は1,400両。1両は現代の10万円程度だったといわれるから、1億4,000万円前後ということになろうか。1人の花魁のためにそれほどの巨費が支払われたのだから、語り草にならないほうがどうかしている。

貧しい親に人身売買されたのが女郎だった

 ところで、「身請け」とは必ずしも耳慣れた言葉ではないかもしれない。男性が女郎屋に女郎の前借金、いわば身代金を支払い、年季が明ける前に遊郭から抜け出させることを「身請け」と呼んだ。蔦重の時代、女郎が吉原から、いわば合法的に抜け出す唯一の道だった。

 吉原の女郎はほとんどが、貧しい親の手で、前借り金と引き換えに女郎屋に売り渡されていた。当時、女性を女郎屋に斡旋し、「人買い」と陰口をたたかれた「女衒」という商売があった。彼らは各地をまわり、貧しい農民や没落した商人、果ては困窮した武家などの娘を探し出し、親を口説いては女郎屋に売り飛ばしたのである。

 つまり、事実上の人身売買だったが、幕府は人身売買を禁じていたため、女郎たちは表向きは奉公していることになっていた。しかし、現実には彼女たちは親の借金の担保で、女郎屋と親とのあいだでは「奉公人年季請状」や「不通縁切証文」といった証文が取り交わされていた。その結果、女郎は年季が明けるまで原則10年間、働き続けるしかなかった。吉原が「苦界十年」といわれた背景には、こういう事情があった。

「苦界」とはよくいったもので、「人身売買」された女郎たちのあつかいはひどいものだった。親の権利はみな養父、すなわち女郎屋の楼主に渡されたので、女郎が病死しても変死しても、親は抗議することもできず、それどころか娘の死を知らされもしなかった。病気になれば治療費は女郎の借金となり、それを返済するために、年季が明けても吉原で働くほかなくなることもしばしばだった。

 身請けとは、このように女郎たちを吉原に縛っている年季の「証文」を客の男性が買い取り、女郎の身柄を引き取ってくれることだった。ただし、女郎たちが身請けしてくれる男性を選ぶことはできず、このため女郎の拒否権は認められていなかった。だが、多くの場合、女郎にとってありがたい話だった。

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