「平成の仕掛人」にしてアントニオ猪木の片腕…名プロモーター「永島勝司さん」のあまりにもプロレス的な人生
〈プレスリー生きていた〉〈フセインが就職身上書〉〈改名 椎名林檎→蜜柑〉。駅売店のキヲスクで、上半分が出た東京スポーツの1面。おおよその予想通り、隠された下半分は以下のように続く。〈?〉〈書くとこうなる〉〈最有力〉(発行はそれぞれ、1989年5月14日付、1991年1月26日付、2000年4月22日付)。
そんなファンタジー溢れる「東スポ1面」のルーツを開発された(とご本人が語る)、元東スポ記者、永島勝司さんが、2月10日、亡くなった(享年82)。同社を退社した1988年には新日本プロレスに入社し、企画宣伝部長としてプロレス史に残る数々の対抗戦を実現させた、まさに“平成の仕掛人”でもあった。
後年は、筆者の取材にも何度も協力してもらった。そばで見聞きしたご本人の素顔を書き残すことで哀悼の意を表したい。(文中敬称略)
【写真】猪木がモハメド・アリと再会…永島氏も関わった新日本プロレスの北朝鮮・平壌興行
「時間と忍耐があれば、桑の葉は絹に変えられる」
1943年、島根県生まれ。専修大学卒業後、「スポーツ毎夕」という新聞社に就職したが、経営が傾き、東京スポーツに転職。最初の配属先は、記事のレイアウトや見出しを付ける整理部だった。東スポと言えば、昔からプロレスがキラーコンテンツだったが、実は当時の永島はプロレスにさっぱり興味がなかったという。
そこでアンドレ・ザ・ジャイアントを一面で扱った際、どうやったら面白い記事になるかを考え〈これがアンドレの右手の原寸大だ!〉と手形を載せると、大ウケした。東スポの自由さを感じ、冒頭で紹介したような、末尾を「?」や「寸前」「可能性も」などで締める「欺瞞の一面」(本人談)を多発する。同紙は1980年代、公称で200万部を超える人気媒体となった。そして、永島は運命の遭遇を果たすこととなる。今度は記者として、新日本プロレス担当となり、アントニオ猪木と出会ったのである。
初対面での逸話は伝説化している。タイトルマッチ2連戦の告知会見だった。同じ王者vs同じ挑戦者のカードが、日付を置いて、2試合発表された。つまり、最初の試合で王者が負ければ、次の試合はリターンマッチとなる。だが、プロレスに明るくない永島は、思わず声をあげた。「これ、最初の対戦で王者が負けても、2試合目があるんですか?」。チャンピオンが初戦で負ければ次のタイトル戦は意味がないのではと思ったのだ。すると、猪木は大喜び。会見後、永島を呼び出し、「永島さんと言いましたね。それでいいんですよ。これからも客観的に観て疑問に思うところは、どんどん指摘して下さい」と請うたのである。
同い年ということもあり、すっかり胸襟を開いた2人は以降、行動をともにすることになる。媒体的に、地方でも常に猪木のそばにいることが出来ただけでなく、「詐欺師って嫌いになれないんだよな。彼らは一瞬でも夢を見せてくれるわけだから」が口癖だった猪木である。良くも悪くも“大振り”な報道が許される東京スポーツと、ソリが合わないわけがなかった。
例えばホテルのプールにいる猪木の写真を撮り、その向こうに小さくスタン・ハンセンが入っていると、〈猪木、ハンセン、水上の視察線〉と見出しを打つのである。特に何も起こってないのだが、それを当時の「ワールドプロレスリング」実況アナウンサー、古舘伊知郎が巧みに実況に取り入れた。実際、古舘は常に東スポをスクラップしており、実況前に永島に色々と聞きに来ていたという。
猪木の肝煎りで、永島を編集長に、新日本プロレス専用の新聞「闘魂スポーツ」を創刊する話もあった(※当時の新日本の経済状況により頓挫)。そんな永島が東スポを辞め、新日本プロレスに入るのは、自然の流れだった。以降、新日本プロレスのフロントの顏として、ソ連(現ロシア)や北朝鮮など猪木の海外興行には必ず同行。ソ連では現地関係者たちのウォッカの一気飲み攻撃に付き合い、北朝鮮では、泊まっているホテルに盗聴器が仕掛けられているのに気付き、猪木と慎重に会話をしたことも。
1990年代には「G1 CLIMAX」をヒット企画にし、天龍源一郎率いるWARや高田延彦を擁するUWFインターナショナルなどとの対抗戦を成功に導いた。筆者と知己を得たのは2001年前後だったと記憶しているが、その際、プロレスにおける座右の銘を自著に書いてプレゼントしてくれた。
「時間と忍耐があれば、桑の葉は絹に変えられる」
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