「安倍番記者」たちが加担したプロパガンダのテクニック「フレーミング」とは
切り取りの問題
フジテレビ問題におけるフリー記者らの振る舞いには厳しい批判の声が多く上がった。だからといって「オールドメディア」とされる新聞・テレビ・雑誌、あるいは個人レベルのSNS情報の信頼度が高いわけでもない。
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近年、メディア発でも個人発でも「情報」の正確さに関連してよく取り沙汰されるのが「切り取り」の問題だ。動画や発言の一部を意図的に「切り取る」ことで、本来の主旨や実態とは別のメッセージを受け手に意識させるというものである。
報道記者の烏賀陽弘道氏によれば、この切り取りは、英語では「フレーミング」といい、プロパガンダの効果を強めるためのセオリー(定石)の一つだという。烏賀陽氏の著書『プロパガンダの見抜き方』から、その実例、さらに受け手側の心得についての解説を見てみよう(同書をもとに再構成しました)
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プーチンのプロパガンダ
――「フレーミング」を用いよ。すなわち発信者にとって都合のいい事実だけを切り取って流し、それが全体であるかのような認識を広めるべし。――
これはプロパガンダの定石の一つである。
例えば、ウクライナとロシアの戦争を伝えるロシア側のニュース映像には、戦火で破壊されたマリウポリが一切映らず、新築ピカピカの建物ばかり映されるということがあった。プーチン大統領がマリウポリを訪問した際のものである。
その結果、この映像だけを見ると、マリウポリ全体が復興したかのような錯覚・印象が残る。非戦闘員だけで2万2000人が死んだ激烈な市街戦だったのに「大したことなかったんじゃないか」とすら思えてしまう。あるいはマリウポリが最初からロシア領だったかのような錯覚が見る者の印象に残る。これがロシア側の狙いなのは明らかだろう。
こういうふうに、発信者側に有利なように、現実の一部だけを額縁に入れるように切り取って見せることを額縁化、または「フレーミング(Framing)」という。写真が趣味の人なら「表現したいものだけに絞ってカメラのファインダーに収める」という意味の「フレームワーク」という言葉を知っているに違いない。
最近、メディアの恣意的な「切り取り」については批判が集まりやすいが、意外と映像や写真のそれについては気づかない方が多い。いくつか具体的な例を示そう。
2017年4月8日、安倍晋三総理が福島県富岡町を訪問。名所である町内の「桜並木のトンネル」に立ち、満開のサクラを背景に立つ写真がマスコミに流れた。
私はこの写真で安倍総理が立っている場所(富岡第二中学正門前)を特定して、同じ位置に立ってみた。すると、わずか200メートル先には、まだ原発事故による放射能汚染のため封鎖中の金属ゲートや可動式のカベ、立入禁止の標識がジグザグに走り、ちょうど総理の目線の先で、総理が立つのと同じ道路が分断されるゲートがあるのが見えた。
そこから先は汚染のために事故後6年経っても立ち入り禁止のまま。地震で崩れた民家や商店が広がっている。総理にもその現実は目に入っていただろう。
総理の表情を撮影する新聞やテレビのカメラは、事前に立ち位置が決められていた。そうした原発事故の汚染で封鎖されたまま朽ち果てている区域を背中にしてカメラを構えるため、写らない。映像には満開のサクラのトンネルを背景にした総理や県知事、官僚たちが微笑む姿だけが映っている。
つまりこれはプーチンのマリウポリ訪問と同じように、復興した場所だけを切り取って写し、復興していない場所(原発事故の汚染が残る場所)は枠外に切り捨てる。無視する。マスコミに流す。これが「フレーミング」である。
消えた被災地
もう一つ、やはり福島県内の例を挙げよう。2021年3月25~27日、東京五輪の聖火ランナーが福島第一原発事故の強制避難で数年間無人化した12市町村を走った。
ランナーのコースは、市町村ごとに1か所、数百メートルずつ、時間にすると5~30分程度しかなかった。ランナーが走るのはどこも「道の駅」「町役場」「復興団地」「小中一貫校」など、原発事故後に国が復興予算を注いで新築した小さな空間ばかりで、震災前の地元住民の生活に関係のある場所がなかった。
原発事故の汚染による避難で、当時原発から半径10キロ以内では住民の95%前後、20キロ以内では80%前後がいなくなった。双葉町では住民ゼロ。ほかも、ほぼ無人のゴーストタウンだ。そこの一角に「そこだけ復興した建物」が唐突に姿を現す。
ところが、テレビや新聞の記者たちは、地震で破壊されたまま、汚染による避難で朽ち果てた無人の街にはまったく関心を払わなかった。主催者の意図どおり、聖火ランナーの走る姿を「復興した風景」を背景に撮影して流した。
私はこの時現場で聖火ランナーとマスコミ記者たちの位置関係を見て回ったのだが、新聞・テレビのカメラマンたちは見事に荒廃した街に背を向けたままだった。そちらに関心を向ける記者もほぼゼロだった。これも「フレーミング」の例である。
ここで問題なのは、五輪組織委員会が記者の立ち位置を決めていない場所でも、マスコミは聖火ランナーにばかりカメラを向け、原発事故で荒廃した無人の街を撮影しようとはしなかったことだ。
のちにテレビで放送されたニュース画像を見ると、政府が用意した「復興空間」をランナーが走る様子ばかりが流れていた。それだけ見ていると、現場を知っている私ですら、原発事故で荒廃した12市町村が「復興」したかのような錯覚を持った。
つまり、日本の新聞・テレビといったマスコミは、政府がつくったプロパガンダを検証したり、反駁(はんばく)したりする姿勢がほぼ皆無である。むしろプロパガンダに従順に従う。これは「権力の監視」というマスメディア本来の責務とは真逆であり、権力を監視する「フェイルセーフ」がないという点で、民主主義社会にとって危険ですらある。
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烏賀陽氏は同書の中でさまざまなプロパガンダの定石を示している。「ほんの少しの事実と大量のフィクションで構成するのが効果的」「極限までシンプルにしたメッセージを反復せよ」などなど。また、プロパガンダの発信元は左右といった立場を問わず、政府や官僚に限らず、企業、団体、さらにSNSの影響で個人にまで広がっていると指摘する。
プロパガンダに囲まれた現代人は、それらの定石、つまりは彼らの手口を知っておかなければならない、というのだ。