「ウルルン」ナレーションで親しまれた下條アトムさん 「もともとはスターだった」俳優としての姿【追悼】

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記者に追い回される“スター”

 俳優の下條アトムさんは声にも魅力があった。TBS系の紀行番組「世界ウルルン滞在記」のナレーションを1995年から12年にわたり担当。温かみがあって独特の抑揚がついた言い回しが親しまれ、「出会ったぁ」は、ものまねされるほどの名文句となる。

 アトムさんと同年生まれの芸能レポーター、石川敏男さんは振り返る。

「ナレーターは才能の一面。もともとはスターでした。1970年代から80年代初め、交際発覚や結婚と話題をまくたび私たちはその後を追い回し、普段の様子も雑誌のグラビアに載った。飾らぬ庶民的な雰囲気が人気の源でした」

 46年、東京生まれ。母親は田上嘉子の名で活躍した女優で、父親の下條正巳さんは後に「男はつらいよ」のおいちゃん役で知られる名優。アトムは本名だ。正巳さんが、ファーストネームで呼ばれる時代が来るだろうと、ローマ字表記にした際に先頭になるA(ア)で始まる名前を考えた。手塚治虫さんが「鉄腕アトム」を発表するより先である。

 高校卒業後、父親の所属する劇団民藝に入る。ところが甲状腺の病気を患う。回復に約2年を要したが、担当の看護師と69年に結婚。

朝ドラの“チンピラ役”が話題に

 72年、NHKの連続テレビ小説「藍より青く」でチンピラを演じたところ、好人物だと予想外の反響を呼び、一躍スターに。映画も野村芳太郎監督「昭和枯れすすき」(75年)で秋吉久美子を相手に好演。山田洋次監督「同胞(はらから)」(75年)の若者役も評判になる。

 父親は口数は少ないが、良き師だった。「役者の前に人間であれ」と説き、ありきたりの古い芝居をするな、と戒めた。同じような展開の場面でも状況は違う、パターンに頼らず余計なこともせずに新しさを模索しなさい、と静かに諭した。

 映画評論家の北川れい子さんは思い返す。

「アトムさんには父譲りの堅実さ謙虚さがあり、短い登場でも役柄の人間性を考え全体を見渡す。抑えた演技が魅力で何でもそつなくできる一方、あれが当たり役だといった印象は薄い」

 役を生きる、と自分に厳しかった。だが、悪役にしては気弱で、市井の善人にしてはクセがある中途半端さを自身で感じていた。

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