「助けてください」…懇願する被害者の首を、くわえタバコでロープで絞め…「名古屋アベック殺人」死刑を回避した少年少女ら6名の“その後”
全員死刑にしてやりたい
2人の死体を埋めて彼らは名古屋に戻ったが、車の塗料などから警察は藤原を割り出し、2月27日に藤原ら5人、翌日中原も逮捕された。
初公判は1988年7月18日。被告側が事実関係のほとんどを認めたため、わずか5回の公判で結審している。1989年1月の論告で、検察側は藤原に死刑、犬丸と中原は無期懲役、残る3人には懲役5年以上10年以下を求刑した。
判決を前に、B子さんの父親は、
「第1回公判には行きましたけど、娘がどんなことをされたか読み上げられると、自然に耳が聴かんようになって…。2回目は途中で退廷しました。犯人が捕まってからは、どうやったら6人一度に殺せるだろうか、と考え続けてました。でも、兄弟も親戚もいるので思いとどまりました。私の気持ちとしては、こんなむごたらしい殺し方をした奴らは、全員死刑にしてやりたいですよ」
と、心境を語った。
***
1989年6月28日に下された一審判決では、藤原に死刑、犬丸に無期懲役、中原に懲役17年、佐竹に懲役13年、横寺と筒見には懲役5年から10年の不定期刑が言い渡された。少年に死刑判決が下されたのは、永山則夫以来10年ぶりのことであった。
しかし、続く高裁判決(1996年12月16日)では、藤原は無期懲役、中原が懲役13年に減刑された。藤原の減刑理由は、「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」とのものだった。上告は行われず、刑は確定した。
事件から15年後の2003年、「新潮45」10月号では、ジャーナリスト・中尾幸司氏が、加害者たちのその後をレポートしている。その時点で6名中、4名が出所し、うち少なくとも3人は結婚、子どもももうけていたという。
一方、遺族のA男さん、B子さんの両家は6名とその家族に対し、損害賠償請求調停を申し立てた。が、事件から15年経ったその時点で支払われていたのは、請求のうち、A男さんの両親に対して半分、B子さんの両親に対して3分の1程度の金額であった――と記事は伝えている。また、その時点でA男さんの父は孤独死し、B子さんの母も59歳で病死していた。
事件から28年後の2016年、「新潮45」9月号は、共同通信記者・佐藤大介氏によるレポートを掲載。そこには、無期懲役となった藤原との面会の様子が記されている。それによれば、藤原は岡山刑務所で服役し、日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当していたという。
決してこの世に戻ることはない被害者と、「その後の人生」を生き続ける加害者。37年前の「名古屋アベック殺人事件」は今なお、少年法の抱える矛盾を我々に問いかけているように見える。
【前編】では、鉄パイプで被害者をめった打ちにした、6名の残虐非道な犯行について詳述している。
関連記事「『名古屋アベック殺人』主犯少年のいま、無期懲役の身に置かれて」では、藤原和彦の獄中での様子が記されている。
[3/3ページ]