“パワーと乱闘”で日本球界に新しい風 「ビュフォード」が貫いたアグレッシブな野球(小林信也)
盗塁死数が示すもの
73年にもビュフォードは金田監督ともめている。そして74年4月27日。太平洋クラブの宮寺勝利捕手とロッテの弘田澄男がホームベース上で交錯した。金田監督は「宮寺が足をかけた」と激高し、宮寺を蹴り上げた。これを見てビュフォードは金田監督の元に突進し押さえつけた。両者ともに退場。
一説には、パ・リーグを盛り上げるための話題作りだったともいわれる。ビュフォードはあのカネヤンと堂々と渡り合える貫禄たっぷりな役者でもあった。
後に金田監督を押さえつけた理由を聞かれて、
「仲間を守りたかった」
と語っている。こうした熱い思いがチームメイトやファンから信頼を得ていた。
ビュフォードは、筋力強化だけでなく、日本野球に攻撃的な姿勢を注ぎ込んだ。それは〈盗塁死〉の数に表れている。大半の日本選手は、盗塁成功率が6割を切ると走ることをちゅうちょする。俊足でも知られた張本は69年に20盗塁を決め、失敗はわずか1。翌70年は16盗塁、失敗4。それが年齢のためか3回に1回の割合で失敗するようになると、盗塁数は1桁に減った。日本では、盗塁失敗を責める空気が強いからだろう。
ビュフォードは違った。来日1年目(73年)は25盗塁、失敗17。翌年はシーズン中に左ヒザ手術を受けながら15盗塁、失敗8。38歳になった75年は12盗塁、失敗11。日本選手ならもう走らない選択をしそうだが、彼は諦めなかった。39歳の76年に14盗塁(失敗7)。引退までアグレッシブな姿勢を貫いた。帰国後は、ジャイアンツ、オリオールズ、ナショナルズでコーチを計6年務めた。
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