「俺は客が1人でも全力で戦うよ! そこで命を張るのがプロなんだ!」 小さな巨人「グラン浜田さん」が貫いた“和製ルチャドール”の熱きプライド
新団体旗揚げの苦労
1989年に大仁田厚が旗揚げしたFMWの成功もあり、90年代のプロレス界は多団体時代に突入して行く。90年3月に旗揚げした「ユニバーサル・レスリング連盟」は、さながら本場メキシコのルチャ・リブレを直輸入した団体で、浜田がエースを務め、その落とし子と呼べるのが、後輩のザ・グレート・サスケが93年3月16日に旗揚げした「みちのくプロレス」だった。しかし、旗揚げ戦前日のサスケは、思わずこう呟いていた。
「参ったな……」
旗揚げ興行は、サスケの地元でもある岩手県の矢巾町民総合体育館で開催。だが、船出の昂ぶりとは裏腹に、前売りチケットが前日までに約300枚しかはけていなかったのだ。大会当日も忙殺され、ようやく開場直前になって会場2階の控室に入ると、大先輩の浜田がいる。
「マサ(※サスケの元のリングネームは、MASAみちのく)よ、今日は一体何人くらい入るんだい?」
「いやあ、ハハハ、売れてませんで。前売り300の当日200で、500くらいじゃないすか?」
「マサよ、そんなもんじゃないぞ」
浜田は、サスケのために、控室のカーテンを開けてやった。すると、窓の外には最後尾が見えないほどの当日券を求める長蛇の列が。しかも、おじいちゃん、おばあちゃん、子供が多い。それは、まさに浜田も馴染んだ、メキシコのルチャの会場と同じ客層だった。
「これだ! これなんですよ! 僕がやりたかったのは!」
小躍りして喜ぶサスケに、浜田も感無量の笑顔だった。
しかし、これは、いわば旗揚げのご祝儀だったということを、サスケらは嫌でも思い知らされることになる。翌日以降の大会から、みちのくプロレスは観客動員に大苦戦。旗揚げの利益を、早くも食いつぶす日々となったのだ。
無理もない。一般的な知名度があるのは、それこそ新日本プロレスのゴールデンタイム期に断続的にテレビに出ていた浜田のみ。来る日も来る日も、余りにも閑散とした会場。そして、遂にベテランにしてメキシコの大スター、浜田の怒りが爆発する瞬間が訪れる。それは、旗揚げ戦から約1ヶ月後の4月22日、盛岡市大東町民体育館大会のことだった。
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