「俺は客が1人でも全力で戦うよ! そこで命を張るのがプロなんだ!」 小さな巨人「グラン浜田さん」が貫いた“和製ルチャドール”の熱きプライド
東京・水道橋駅西口のパチンコ屋で、お姿を見かけることが多かった。タバコを美味そうにくゆらしながら台を打つ身長167cmの小男が、メキシコと日本を繋いだ高名なプロレスラーだと知る客は、周囲にほとんどいなかったに違いない。
そのグラン浜田さんが、2月16日(日本時間)、永眠された。“小さな巨人”と言われ、空中殺法を主体としたメキシコのプロレス、“ルチャ・リブレ”に人生を捧げた偉人が、日本に残した功績を含め、生涯を辿りたい。
【貴重写真!!】都知事選出馬を目指した猪木との意外な場所での2ショットと、伝説となっている初代タイガーマスクとの試合
まさしく「小さな巨人」
1950年、群馬県生まれ。高校時代の柔道部主将を経て、河合楽器(実業団)でも柔道に専心すると、1972年ミュンヘン五輪の軽量級候補にも挙げられた。ところが肝臓を悪くし、退職の憂き目に遭うと、地元の友人が声をかけて来た。
「俺と一緒に、プロレス、やらないか?」
後のミスター・ポーゴ(関川哲夫)だった。やや小心なところのあるポーゴをおもんばかる気持ちと、自らのプロレス憧憬が合致し、力道山時代から続く老舗の日本プロレスを訪問するも、浜田のみ、身長の低さを理由に入門を許されなかった。今度は浜田を気遣ったポーゴの誘いで、旗揚げ戦直前の新日本プロレスを訪れると、2人とも入門が許可された。発足時にはアントニオ猪木、山本小鉄、藤波辰巳、木戸修、柴田勝しか所属選手がいなかった新日本プロレスは、少しでも人材を確保したかったのである。
いざ入団すると、当時は人間関係含め、“軍隊よりも厳しい”と言われた新日本道場だけに、親友のポーゴは早々と退団。浜田自身、本名(浜田広秋)でのデビュー以降も、地獄の日々を送ることになった。腹痛を訴えたところ、「なら、腹を鍛えろ!」と“鬼軍曹”山本小鉄に返され、その通りにしたところ、失神。実は、虫垂炎で死ぬ寸前だったという。だが、持ち前の負けん気で乗り切ると、山本より“リトル浜田”というリングネームを頂戴し、前座の人気者に。本人もこのリングネームは気に入っていたようだ。そんな浜田に1975年6月、転機が訪れる。メキシコへの武者修行に出されたのだ。
〈“グラン”とは、単位のグラム(g)を文字ったもので、小回りの利く彼の体格から付けられた〉
筆者が幼少期に読んだ子供向けの『プロレス大百科』の類には、そう書いてあったと記憶している。
メキシコで“グラン浜田”となると、文字通り躍動する。軽量級ファイター主体の同国だけに、相手にも事欠かず。また、そもそもの確かな格闘歴もあり、メキメキ頭角を現した。気が付けば、1年に400試合をこなす人気者に。メキシコではルチャ・リブレは入場料も割安な庶民の娯楽で(※書籍によっては国技と称されていることも多い)、至るところに会場が常設されており、一番多い時で、1日で5試合に出場したことがあるそうだ。
筆者が取材した際に印象に残ったのは、一番気を遣う技として「ヘッドロック」を挙げたこと。この技に入ると、相手も自分も動かなくなる。飛んだり跳ねたりのルチャ・リブレでは、この技を挟むことで展開にメリハリをつけるとのことだった。
いつしか、浜田は、メキシコにおけるトップスターに。同国のメジャー団体UWAにおいて、外国人ながら史上初の3階級制覇を果たした。同地での年間最高試合賞を獲ったこともあれば、最優秀外国人選手賞をもらったことも。その他、メキシコでのタイトル歴は数知れず。同国に来たルー・テーズやカール・ゴッチ(*こちらはメキシコで一時、コーチを兼業)とタッグも組んだ。“鉄人”、“神様”と並び称されるというより、メキシコではむしろ上位の扱いと言って良かったのである。まさしく“小さな巨人”だった。
1979年の暮れには、藤波や長州らの新日本勢がメキシコ遠征に訪れ、その人気に驚くとともに、浜田のファイトに脱帽したという。メキシコは標高2200メートル、富士山で言えば五合目にあたる。空気が薄く、馴れない日本人はすぐバテてしまう。同国で戦い馴れている浜田が、日本において常に元気一杯の印象があったのは、こんな環境に裏打ちされていたのかも知れない。
だが、その高い実績が、当の日本で正当に評価されたとは言い難いと思う。
メキシコ現地に家庭を持ち、早くから日本とメキシコを行き来する生活だったことにも、それは起因しているだろうし、彼自身の全盛期に、ルチャというものが日本に浸透していたとは言えなかったこともあるだろう。70年代後半から80年代の前半にかけての新日本ジュニアに、藤波辰巳、初代タイガーマスクという2大スターが出て来たことも大きかった。浜田は帰国して新日本プロレスに出場することはあっても、あくまで年に1、2回のシリーズに顔を出す特別参戦扱いだった。当時のタイガーとは2回一騎打ちをし、リングアウトを含む、2連敗。本人の述懐が残っている。
〈タイガーをやるんだったら、俺にやらせてくれればという思いはあったよね。(中略)それに俺が応えられたかというとクエスチョン(だけど)〉(『週刊プロレス』2010年3月24日号)
1983年1月6日、小林邦昭と一騎打ちした初代タイガーマスクのセコンドに入った浜田が、いつしか小林側にまわって声援していたことがあった。浜田の本心が顔を覗かせた瞬間だったと思う。では、日本において、嬉しかったことは何なのか? 1996年11月12日、自らの25周年を祝う大会で、浜田は顔をほころばせ、記者にこう答えている。
「そりゃあ、(ルチャ主導の)みちのくプロレスで、やってこれたことだよねえ……」
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