下水を採取して“感染状況”を把握…コロナにもインフルエンザにも効果絶大 世界が注目する日本人研究者の「下水疫学」

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社会実装で他国に遅れ

 コロナ禍で下水疫学調査に国を挙げて邁進したのがアメリカだった。アメリカ疾病予防管理センター(CDC)が主導して1700カ所以上で調査をし、データを日々公開している。欧州連合(EU)も熱心で、1300カ所を調査している。アジアだとシンガポールが進んでいて、下水処理場に加えてマンホール500カ所ほどを調べている。中国や韓国も調査地点は多い。これらの国々は公衆衛生の状況をモニタリングする手段として、下水疫学に期待を寄せている。

「日本は下水疫学の社会実装という意味で、他の国と比べるとなかなか進んでいないところがありますね」と北島さん。理由として、PCRや抗原検査といったヒトを対象にする調査が充実していたこと、さらに感染拡大の初期に感染者数が少なく、下水からウイルスを抽出するのが当時の技術では難しかったことなどが挙げられる。後者の課題は、北島さんが塩野義製薬株式会社(大阪市)とともに高感度にウイルスを検知できる技術を開発し、すでに解決した。

 新型コロナは今後も流行を繰り返すとみられ、感染状況の把握は欠かせない。下水疫学調査は一つの下水サンプルからさまざまな感染症の流行を調べられる点で、公衆衛生の監視にうってつけだ。

「世界では10年に一回くらいのペースでパンデミックが起こると言われています。次のパンデミックに備える上での検査のインフラとして、下水疫学調査は重要なもの。4億円くらいあれば、日本全国でもそれなりに充実した下水疫学調査ができると考えています」(北島さん)

 日本で最初に提唱された新型コロナの下水疫学は、残念ながら他国で先に社会実装が進んだ。その実、中国で下水疫学が浸透したのは2023年以降とごく最近のことに過ぎない。中国は同年1月初旬まで感染を強権的に封じ込める「ゼロコロナ政策」を採用しており、その間は日本と同様にヒトに対する直接の検査を重視した。政策の終了とともに監視の手段として下水疫学調査を一気に推し進めたという。日本は後から来た中国に追い越されてしまった形だ。

増える下水道の役割

 下水疫学の名付け親の一人でもあり、医療系のニュースで取り上げられることの多い北島さんは「よく下水道に目をつけましたねと言われるんですけど、僕はもともと下水道から研究を始めてるので」と苦笑する。専門とする「衛生工学」は、医学分野の公衆衛生と工学を結び付けて都市の衛生問題の解決を目指すもので、上下水道や冷暖房、廃棄物の処理などを対象とする。

 衛生工学の命題は、衛生的な環境を保つことにあり、浄化や消毒に力が入れられてきた。それが徐々に変わってきている。

「我々の衛生環境を保つという目的も、もちろん変わらずあります。その一方で、農地や河川、海まで含めて環境全体の健全性を保ったり、エネルギーを作ったりという役割も担うようになりました。対象にする範囲が非常に広くなっています」

 すそ野を広げる衛生工学の中でも、特に下水道は面白いという。

「下水道って、本当に色んな役割があるんですよね。メタンガスを作って発電したり、下水熱で融雪をしたり、処理水を遊水公園や灌漑用水に使ったり……。この下水疫学も一つの重要な役割ですし」

 下水道はこれまで、生活環境から下水を排除して衛生を保つ「社会の静脈」としての機能が重視されてきた。近年、エネルギーや栄養の源、ひいては病気を把握できる情報源や治療薬として注目を集めている。「社会の動脈」に生まれ変わる日も近いかもしれない。

山口亮子・ジャーナリスト
愛媛県生まれ。京都大学文学部卒。中国・北京大学修士課程(歴史学)修了。時事通信記者を経てフリーに。著書に『日本一の農業県はどこか 農業の通信簿』(新潮新書)、共著に『誰が農業を殺すのか』『人口減少時代の農業と食』などがある。雑誌や広告の企画編集やコンサルティングなどを手掛ける株式会社ウロ代表取締役。

デイリー新潮編集部

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