下水を採取して“感染状況”を把握…コロナにもインフルエンザにも効果絶大 世界が注目する日本人研究者の「下水疫学」
コロナ禍が過ぎ去った後も、インフルエンザ、サル痘、ヒトメタニューモウイルスなど、さまざまな感染症が日本を襲おうとしている。近年、これらの流行をどこよりも早く察知できる画期的方法が注目されている。コロナ禍で日本の若き研究者が世界に先駆け、下水による調査で感染症の流行を把握できると発表し、その研究を後追いする形で世界中のインフラ整備が進んでいるのだ。【山口亮子/ジャーナリスト】
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感染状況や変異株を早期に探知
コロナ禍のただ中にあった2020年5月、東京都が下水を採取して新型コロナウイルスを分析する試みを始めた。下水処理場で職員が下水を採取する様子が繰り返しニュースで取り上げられたので、印象に残っている読者も多いかもしれない。同年4月にピークを迎えた流行の第一波が落ち着き始めたタイミングで、「第2波の予測に役立てたい」(東京都)との狙いからだった。
新型コロナウイルス感染症の流行の状況を下水で調べることができる――。2020年4月に世界で初めて論文でこう発表したのは、日本人の研究者だった。東京大学大学院工学系研究科附属水環境工学研究センター特任教授の北島正章(きたじままさあき)さんだ。
「世界に先駆けて、コロナ対策に下水疫学が活用できるという発表をして、その後、実際に下水からウイルスを検出できると示しました」
とは当の北島さんである。
「下水疫学」は、下水に含まれるウイルスといった病原性の微生物を調べて感染症の流行を把握する手法で、コロナ禍で脚光を浴びた。この言葉自体、世界的なパンデミックが起きている最中に英語の「Wastewater-based epidemiology」の訳語として考案された、新しい研究分野である。
北島さんは当時、北海道大学に所属しており、論文の発表と前後して札幌市の下水処理場で下水を採取し、ウイルスの濃度から感染者の多寡を判断する研究に着手する。下水処理場の流入口で下水を採取し、含まれるウイルスの遺伝子の数から感染者数を推定した。新型コロナウイルスは感染者の排泄物に含まれるので、この手法で感染者の増減はもちろん、変異株の出現を早期に知ることができる。
地域や集団を単位に新型コロナ感染症の流行の状況を調べられる下水疫学は、5年前から注目され、東京都や横浜市などでもその調査が行われた。
他の検査に比べ先行性とコストで優位
その後も調査地点は増え続け、2024年度は13都県の17の下水処理場で、厚生労働省の事業として新型コロナウイルスの下水疫学調査が実施された。厚労省は2025年度に調査の地点をさらに増やすとして、新型コロナを含む「感染症流行予測調査事業」で前年度に比べて1.7倍となる2億4000万円の予算を概算要求している。
下水を採取する地点としては、北島さんが最初の調査でそうしたように、下水処理場に注ぎ込む流入口がよく選ばれる。
「マンホールで採る場合もあって、どこで採るかは調査の目的によって違ってきます。その地域の感染状況を広く知りたいのであれば、下水道の下流の末端にある流入口で採るのが一番です」(北島さん、以下同)
一つの下水処理場は平均で10万人の下水を受け入れる。小さい規模の街なら1000人程度、全国一である東京都森ヶ崎水再生センター(大田区)では約210万人の下水を管理している。
「もっと小さいエリアの感染状況を知りたいのであれば、マンホールから採ることになります。高齢者施設や病院など、それぞれの施設で感染者がいるかどうかを細かく調べることもできるんです」
PCR検査や抗原検査に比べた下水疫学調査の利点は、「早く」「安く」広範囲をカバーできることだ。ヒトを対象にした検査は、感染から症状が出るまで、さらには検査してから結果が出るまでのタイムラグが生じる。コストは高く、これらの検査に2021年度は国の予算だけで数千億円を投じていた。
その点、下水疫学調査なら、感染者が無症状の状態でもウイルスを排出するので捕捉できる。下水はトイレから下水処理場の流入口まで数時間で到達し、タイムラグが少ない。
「ヒトを対象にした検査に比べ、5日から一週間くらいは先んじることができます。調査の対象も目的も違うので単純に比較はできませんが、PCR検査に比べるとコストの面でかなり有利です」
下水で調べられるのは新型コロナだけではない。インフルエンザやデング熱、サル痘、この冬に中国で大流行しているヒトメタニューモウイルスなども対象となる。
いまや多くの感染症は海外からもたらされる。北島さんは国際空港である羽田、成田、福岡の三つの空港で、大阪大学などと構成する研究チームで航空機の排水やターミナルの下水を調べている。
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