【べらぼう】小芝風花が妖艶に演じる「花の井」改め「瀬川」のシンデレラ物語と転落

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才色兼備の花魁は身請け先に困らなかった

 鳥山検校による瀬川の身請けについて述べる前に、まず瀬川とはなんであるかを記しておきたい。瀬川は初代から九代まで伝えられ、「べらぼう」の花の井改め瀬川は五代目に当たる。

 初代が名を馳せたのは、五代目より半世紀ほど早い享保年間(1716~36)で、次のような話が伝わる。武士の娘で医者に嫁いだが、夫が盗賊に殺されて、松葉屋の女郎に身をやつした。だが、享保7年(1722)4月、吉原で仇討ちを遂げた――。しかし、これは「瀬川」という名跡が大きくなったことから創作された逸話だ、と見る向きが多い。

 とくに有名なのは、蔦重の幼少期にあたる宝暦年間(1751~64)に活動し、「瀬川」という名を、吉原を代表する名跡に引き上げた四代目だった。下総(千葉県北部と茨城県南西部)の農民の生まれで、美貌はもとより、書画、和歌、俳諧、茶の湯、三味線、笛太鼓、さらには囲碁、すごろく、易学、そして蹴鞠までこなす才女だったと伝わる。

 吉原の女郎は格が上になるほど、客をよろこばせる知性や芸が求められたので、このような才が備わるのは、必ずしも珍しいことではなかった。とはいえ、これほどの才色兼備ともなると、身請けしたいという男性にも困らなかったようだ。結局、江市屋宗助という豪商に身請けされ、両国近辺に囲われたとされるが、28歳で短い生涯を終えたという。

身請けできたのは高利貸しだったから

 小芝風花が演じる五代目瀬川も、前半生についてはよくわかっていないが、美貌に加えて、書画に詩歌、歌に踊りと多方面の才能を発揮したようだ。蔦重が『吉原細見 籬の花』を刊行した安永4年(1775)に「瀬川」の名跡を継ぐと、吉原を代表する花魁となって名声が広がった。

 そこに現れたのが鳥山検校だった。1,400両(現在の価値で1億4,000万円程度)ものカネを払って五代目瀬川を身請けしたので、さすがに江戸中の話題になったという。それにしても、どうしてそれほどのカネがあったのか。

 江戸時代中期には、盲人は幕府の手厚い保護を受けていた。「座頭」と呼ばれた盲目の人たちは、生活の糧がかぎられることへの配慮として、特別に高利で貸し付けること(座頭金と呼ばれた)が許されていたのである。このため、彼らの多くは、盲人の伝統的な職業であったあんまや鍼術による稼ぎを元手に高利貸しを営み、獲得した利息を吉原で使っていた、というわけである。

 とくに鳥山検校は「当道座」と呼ばれた盲人組織の最高位に就いていた。当道座は幕府から、種々の事業の独占を認められ、税金も免除されていた。それをいいことに、鳥山検校もかなり苛烈な取り立てをしていたと伝わる。幕府の弱者対策が裏目に出たといえようか。

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