「あの連中は、山岳アジトで12人を殺している」…「あさま山荘事件」の容疑者が長野県警の取り調べに打ち明けた“総括”という言葉の衝撃

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 1972(昭和47)年2月28日――NHKと民放各局を合わせ89.7%という、驚異の視聴率で全国に生中継された「連合赤軍あさま山荘事件」。逮捕されたメンバー5人は長野県警に分散留置された。極左集団が武装して人質をとるという、日本警察にとって初めての事件捜査の裏側で何が起こっていたのか、改めて検証する(全2回の第2回)。

困難な取り調べ

 連合赤軍メンバーがあさま山荘に立てこもってから6日後の1972年2月24日、朝の9時半からメンバーの一人、坂東国男の母親が滋賀県から説得に訪れ、警備広報車のマイクを握った。

〈「……中国とニクソンが握手するような時代になって、あんたたちのいうような時代になったんやないの。出てくればみんなに同情されて、先見の明があったといわれるようになる。……おかあちゃんは小さいころからクニちゃんが自慢のタネやった。出てくるのをおとうちゃんも、おかあちゃんも、富山のおばあちゃんも、おじいちゃんもみんな待ってる。出てきておかあちゃんとごはんたべよ。警察の人も報道の人もみんないい人ばかりや。前みたいに警察の人はこわいことしないとおかあちゃんにいうてくれた。おかあちゃんはいままでウソついたことないやろ」〉(『過激派壊滅作戦 公安記者日記』滝川洋著 三一新書より)

 人を痛めつけたら、自分も痛めつけられないといけない――母親の訴えに、山荘は無言だった。2月28日、警備本部による救出作戦が行われ、坂東は逮捕される。その直前、父親は「死んでお詫びする」と遺書を書き 、自ら命を絶った。

 人質を無事救出。犯人はすべて逮捕。警察側と民間人に犠牲者が出たが、先に軽井沢駅で逮捕した4人と合わせ、計9人の連合赤軍メンバーの身柄をおさえた長野県警には、さらなる課題が突きつけられた。

 軽井沢署の「連合赤軍事件警備本部」は、刑事部と警備部(公安部門)を主体とした「連合赤軍事件特別捜査本部」に名称を変更し、事後捜査にあたることになった。道場に並べられたあさま山荘から押収された証拠品は、強行突入の際に発射された催涙ガスがしみ込んでおり、石油ストーブで乾燥させるとその蒸気で、涙が止まらなくなる。まさに格闘しながら、1点1点を細かく検証していくことになった。

 それと並行して、逮捕被疑者の人定・取り調べも困難を極めた。完全黙秘で名前を名乗らない。指紋などから人定は取れていたが、捜査員との雑談にも応じない。

「この時に決めた捜査の大方針は、史上初の銃撃を伴う救出活動となったわけですが、犯人たちが撃った1発ごと、その全ての裏付けを取って立件しようということでした。何時何分、どの場所からどのような銃弾がどこを狙って撃ったのか。後の銃使用に関わる捜査のお手本となるような、完璧な捜査をしようと考えたのです」(長野県警OB)

 取調官は刑事部・警備部双方からの二人一組とし、若手とベテラン、硬軟など、様々な組み合わせを考えた。捜査に関わった元長野県警警備第2課長の北原薫明氏は、著書でこう振り返っている。

〈彼らはいずれも確信犯であるので、行った行為についての罪悪感がなく、むしろ行為を正当化している者ばかりである。それに警察を敵視しているので、取調べ の方法は、まずその点から打ち崩していかなければならない。(略)そこで取調官は、彼らと理論闘争をしないこと、取調べ の要諦は被疑者との間に良好な人間関係、相互に信頼の糸を通じ合わせること、という大原則を再確認して正攻法で臨むことにした〉(『連合赤軍「あさま山荘事件」の真実』ほおずき書籍より)

 肉親の情、友愛、男女の愛情など、連合赤軍メンバーにはすべて「ブルジョア的であり、共産革命にとって最大の敵」と決めつけている。坂東が母親の説得を無視したのも、こうしたイデオロギーの表れだ。だが、長野県警はあくまでも“正攻法”で被疑者と接した。

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