ライフルに耐えるよう「防御盾」を徹夜で補強…「連合赤軍あさま山荘事件」に動員された警察官の「テレビに映らない戦い」

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鼻を突く臭い

 72年1月8日、神奈川県警が丹沢大山自然公園の渓谷で連合赤軍のアジト跡を発見した。さらに2月、群馬県警が迦葉山や榛名山中などで赤軍のアジト跡を相次いで発見する。きっかけは同7日に地元の住民から「若い数名の男女が大きなリュックを持ってバスに乗り込んだ」との目撃情報が寄せられたことだった。皆、何日も風呂に入っていないらしく「その臭い のひどいこと」といったらなかったという。

 16日には妙義湖畔で車に立てこもった男女2人を逮捕。これまで都市部に潜伏していると思われた過激派が山中に潜んでいることが分かり、警察庁は関係県警に大掛かりな山狩りを指示した。17日。群馬県警機動隊が妙義山中で、メンバートップの森恒夫とそれに次ぐリーダーの永田洋子を逮捕した。最高幹部の相次ぐ逮捕に、本格的な山狩りが続いていた2月19日の午前7時過ぎ、連合赤軍のメンバー4人が姿を見せたのが国鉄(当時)軽井沢駅だった。

〈華やかな軽井沢の乗降客を見慣れている売店のSさんは、この四人が現れたときから驚いてそれとなく注視していた。それというのも、若い四人がいずれも髪はボサボサ、登山客のような姿だが、いずれもよれよれのアノラックのようなものを着て、ズボンなどもこの寒いのに濡れている。(略)売店に来た男を見てさらに驚いた。悪臭が鼻を突き、千円を出した手は垢で真っ黒に汚れていた〉(前掲書より)

 この時、逮捕された男女2名ずつのメンバーのうちの1人が、今年1月23日に76歳で亡くなった植垣康博氏だった。

 連合赤軍メンバーが軽井沢に――至急報を受けた長野県警は、19日午後から軽井沢町南部地区を重点に捜索。さつき山荘に潜んでいた赤軍メンバーと銃撃戦となり、犯人たちはそのまま、あさま山荘に立てこもった。

「集団で武装した極左集団による人質事件」という、日本警察が経験したことのない重大事件を前に、長野県警は発生直後に746名の警察官を現場に動員。犯人たちが逃走しないよう、山荘の周辺を中心に取り囲んだ。

「県警に機動隊はありましたが、特車隊を入れて計10個大隊の警視庁機動隊とは規模と実力に差があるのは明白でした。応援部隊なくして、とても警備実施は行えないと、県警本部に設置された連絡室を通じて警察庁に応援派遣を要請しました」(前出・OB)

 発生翌日の2月20日早朝には警視庁第9機動隊、同ライフル隊、神奈川県警機動隊ら応援部隊が到着。重装備の機動隊員らが山荘周辺を取り囲む写真や映像はすっかりおなじみだが、それを支えた「裏方」の苦労は並大抵のものではなかった。

 まず、装備班。長野県警では14名の担当者を置き、車両の運用修理、けん銃の弾、ガス銃、バリケード用の有刺鉄線、発動発電機、強力ライトに石油コンロやストーブ、カイロの手配など、多岐にわたる任務に従事した。特に機動隊員たちが使用した防御盾は1600板を超えたが、このうち600板はライフル弾に耐えるよう2枚重ねに補強するため、警備本部の置かれた軽井沢警察署裏庭では徹夜の作業が続き、戦場のような忙しさだったという。

「県警本部会計課員を中心に編成した補給班も大変でした。部隊員の給食、宿舎・休憩所の確保、必要物資の調達などですが、特に給食は不眠不休で取り組みました。発生から2~3日は地元の旅館や食堂を経由しておにぎりを支給していましたが極寒の件場では、配るころには凍り付いてしまう。長野市や上田市内の業者に頼み、折り詰め弁当に変えたのですが、少しでも温かいものをと思い、軽井沢署の裏庭に大釜を設置。味噌汁や甘酒の支給も始めました」(当時の長野県警職員)

 この事件で有名になったのが、発売から間もない日清食品のカップヌードルだった。機動隊員がうまそうに食べる場面が全国ニュースで流れたが、それだけで隊員たちの腹を満たすことはできない。補給班は発生から3日間は完全徹夜。警備本部では増員を検討したが、とても余裕はない。そこで2月22日からは県警察学校の初任科生を動員した。105名の初任科生が交代で駆け付け、1日1000枚以上の皿や茶碗を洗い続けた者もいた。

 浅間おろしの寒風が吹きつける夜間はマイナス15度まで冷え込む。配置した特型車両などを絶え間なく動かすため、ガソリンを山荘周辺に 運んでいたが、そのままにしておくと凍ってしまう。そのため、隊員が交代でガソリンの容器 を振り、凍結を防いだ。

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