ライフルに耐えるよう「防御盾」を徹夜で補強…「連合赤軍あさま山荘事件」に動員された警察官の「テレビに映らない戦い」

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 1972(昭和47)年2月28日――NHKと民放各局を合わせ89.7%という、驚異の視聴率で全国に生中継された「連合赤軍あさま山荘事件」。事件は2月19日に発生し、山荘管理人の妻を人質に連合赤軍メンバー5人が、あさま山荘に立てこもった。「革命は銃口から生まれる」を合い言葉に71年に結成。警察に追われながらも群馬山中のアジトで軍事訓練を行い、軽井沢に姿を現した赤軍メンバーに対し、連日、千数百名の警察官が動員された。「史上最大の救出作戦」となった2月28日を迎えるまで、極寒の軽井沢を舞台に、事件の裏側では何が起こっていたのか、改めて検証する(全2回の第1回)。

容赦ない銃弾

 2月28日、午前10時から警備実施(警察部隊による強行突入)が開始され、高圧放水車がうなりを上げた。山荘への突入を控えた警視庁・長野県警機動隊員に同11時10分、野中庸・長野県警本部長から命令が出る。

「各隊は隊長の判断で突入せよ」

 警視庁第2機動隊は山荘3階、長野県警機動隊が2階、そして警視庁第9機動隊が1階へと突入を開始、特科車両隊の高圧放水車が山荘正面から支援を行う。

 同27分。山荘前で活動中の放水車や特型車を指揮していた、警視庁特科車両隊技術担当の高見繁光中隊長(警部)が左前頭部を狙い撃ちされた。犯人たちは山荘正面にある7か所の銃眼から容赦なく撃ってくる。

 同47分。土嚢を乗り越え、突入を試みた2機・中隊長付伝令の大津高幸巡査が被弾。猟銃の散弾で左眼球および左側頭部貫通銃創の重傷を負う。これが犯人から放たれた21発目の銃弾だった。

 その7分後――26発目の発砲だった。

 2機・内田尚孝隊長(警視)の左前額部にライフル弾が命中、その場に倒れ込んだ同隊長は、救急車で搬送された。

 さらに2分後。山荘3階の調理室に侵入していた同隊の上原勉・第4中隊長(警部)が受けた27発目は、至近距離からの猟銃の散弾で、上原中隊長の顔面に命中。頭部及び顔面盲貫銃創の重傷を負う。その後、続けて6発の発砲があったが、隊員は大盾で防御した。

 高見中隊長は午後零時26分、内田隊長は同4時1分、搬送先の病院で殉職した。

 事件当時、長野県警警備第2課長として現場に立ち会った北原薫明氏は著書『連合赤軍「あさま山荘事件」の真実』(ほおずき書籍)で、こう明かしている。

〈午後零時三十分、(特科)車両隊の伝令の若い隊員が、本部車に連絡をするために走ってきた。「放水用の水が、後わずかしかありません。至急手配してください」
 ちょうどそのとき、無常にも無線機から「高見警部が零時二十六分、小林脳外科において殉職された」の連絡が流れた。これを聞いた隊員は「中隊長が死んだ。ちくしょう、やつら」と叫びながら一瞬その場に泣き崩れた。
(略)しばらくして、その隊員はきりりとした姿勢で「水をお願いします。なお中隊長が死んだことは、我々の隊の方に言わないでください。士気が下がります」と言い残し、放水車に引き返していった。
 肩を落として前線に帰る若い隊員の背に、歴戦を闘ってきた警視庁の機動隊魂と真の警察官の姿を見る思いがした〉

 この日、動員された警察部隊は警視庁576人、神奈川県警212人、山梨県警4人、そして長野県警747人。2月19日の事件発生来、応援部隊の支援を得て事件に対処してきた長野県警だが、

「連合赤軍の主力メンバーが多数の武器で武装し、人質を取って立てこもる。特殊事件であると同時に、県警にとっては突然、降ってわいたような大事件でした。発生地を管轄する立場から、最大限の人員を割きました」(長野県警OB)

 強行突入までの事件の経緯を振り返ってみたい。

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