「ピンク・レディーの2人がいるから頑張ってこられた」 ミーとケイを感激させた「大スター」からの賛辞

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「君たちに期待していない」

 無事、A面「ペッパー警部」でデビューに漕ぎつけたが、ミニの衣装で大股開きの振付も下品と不評だった。それは阿久らが押し切ったのだが、さらにレコード会社のビクターの上層部は「君たちに期待していない」とあからさまだった。

 そんな不協和音の中での船出となった「ペッパー警部」。リリースしたものの、ヒットとはほど遠い。オリコンチャートで100位にも入らない。

 しかも、2人ともお金がなかった。私服の衣装代を5万円の給料から捻出し、夜中にお腹をすかして食パン一切れを食べた日もあった。

 それが一変するのは76年10月に行われた「新宿音楽祭」だ。

 客席がワーッと盛り上がった。それまでと違う手応えがあり、風向きが変わったのを感じた。そして、同年11月に「S・O・S」が爆発的にヒットし、「ペッパー警部」も売れ始め、2曲がチャートの1位と3位にランキングされた。

 それから先はご存じのように、日本中が嵐のような“ピンク旋風”に包まれる。「カルメン’77」に始まり、「渚のシンドバッド」「ウォンテッド」「UFO」(以上77年)、「サウスポー」(78年)とメガヒットが続いた。78年夏には後楽園球場に7万人を 集めたイベントも大成功を収めた。

 そんな2人が一息ついたのは78年の暮れ。

 この年は「UFO」で日本レコード大賞、「サウスポー」で日本歌謡大賞を受賞。大きな二つの音楽賞を、異なる曲で受賞したのは、後にも先にもピンク・レディーの2人だけだ。

 レコ大の授賞式には最優秀歌唱賞の沢田研二の姿があった。ジュリーはその前年(77年)に「勝手にしやがれ」で大賞を受賞している。ピンク・レディーは圧倒的な得票数でレコ―ド大賞を受賞した。ジュリーは78年の会見でこう語った。

「この1年間、ピンク・レディーの2人がいたからこそ僕も頑張ってこられた」

 実は前年、ジュリーは2人に「ピンクちゃん、ごめんね。今回は僕が取らせてもらうね」と声をかけたという。その時、二人は大スターのジュリーが、謝るように言うのに驚いた。そのジュリーが今度は「2人がいるから頑張ってこられた」と言っている。「レコ大なんてとんでもないのに」とミーちゃん。

 感激したと同時に、コンビを支えてくれた阿久、都倉、飯田、振付の土居甫らにやっと恩返しができ、正直なところ、ホッとしたという。がむしゃらに走り続けた日々ののち、ようやく我に返ることができた瞬間だった。

 余談だが、ピンク・レディーの連載では個人的な後日談もある。ちょうどその頃、絵描きをやっている連れ合いが静岡のデパートで個展を開いたのだが、ケイちゃんのおにいさんが美術部の部長さんだった。縁は異なもの。悪いことはできない。

峯田淳/コラムニスト

デイリー新潮編集部

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