「ピンク・レディーの2人がいるから頑張ってこられた」 ミーとケイを感激させた「大スター」からの賛辞
俳優、歌手、タレント、芸人……第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いは何か――。コラムニストの峯田淳さんは、日刊ゲンダイ編集委員として数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけています。そんな峯田さんが綴る「人生を変えた『あの人』のひと言」。第4回はスーパーアイドルとして日本に大ブームを巻き起こしたピンク・レディーの秘話です。
当初のコンビ名は「白い風船」
ピンク・レディーにお願いして連載が実現したのは2010年のことだった。この時のことを思い出すと今でも冷や汗が出る。新聞が発売される当日の未明まで、どうなることかという非常事態だったのだ。
その理由はミーちゃん(未唯mie)からGOサインが出なかったこと。
問題になったのは写真だった。連載が始まる何日か前に、音楽スタジオの隅っこの狭くて暗めの部屋で撮影が行われた。ライティングは大丈夫だろうかとこちらが思ったほどだから、2人、とくにミーちゃんが納得できなかったのも当然だった。
コンビは解散していたけど、改めて「解散やめ!」を宣言し、結成から35年目にして再びピンク・レディーをやると決意。記念のアルバム「INNOVATION」もリリースした。それに合わせて連載をやるなら、完璧な形でやりたいと思っていた。でも……。
だが、夜中の1時か2時を回った頃、ケイちゃん(増田惠子)から連絡があった。
「ミーには私から言います。よろしくお願いします」
直前までドキドキもので、合計28回の連載がスタートしたのだった。
デビューからの来し方を振り返る内容はとても興味深かった。
当時、ピンク・レディーが寝る間もない忙しさだったことは知られている。移動の車が会場に着くと、楽屋に入るまでの間に取材が5件はあるのが当たり前。歩きながら質問に答え、撮影時間は1、2分。会場入りが間に合わなくて3時間遅れたこともある。大御所を待たせ、怒られたことも。
移動が間に会わずヘリにも乗った。解散するまで4年余り、ダブル・トリプルブッキング、睡眠時間が2、3時間はザラだった。
デビュー曲は「ペッパー警部」(76年8月)だが、最初はA面に「乾杯! お嬢さん」とするのが有力だった。しかし、どちらの曲も作詞、作曲を担当した阿久悠と都倉俊一、そしてディレクターの飯田久彦が「A面は絶対にペッパー警部だ」と主張した。
コンビ名についても、2人が静岡出身であることから「茶畑」「みかん畑」から「ちゃっきり娘」なんて名前が候補になり、一度は「赤い風船」ならぬ、フォークっぽい「白い風船」に決まっていたが、「ペッパー警部」に合わせ、都倉がカクテルの名前から「ピンク・レディー」を提案してどうにか通った。
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