「だよね~!」で日本を席巻した「EAST END×YURI」結成秘話…「GAKU-MC」が明かす最大の転機は「男性客でいっぱいのYURIのソロライブにゲスト出演したこと」

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自分の生活を歌う

 1994年8月にシングルカットされた「DA.YO.NE」は若者の何気ない日常を綴った親しみやすい歌詞や、口ずさみやすいキャッチーなフレーズでたちまち話題を呼んだ。札幌市に拠点を置くFM NORTH WAVEでのパワープレイがきっかけで注目を集めた作品は、まもなく各地のFM局でチャート入りを果たすと、半年かけてオリコンチャートの7位まで上昇。翌年2月20日付のチャートでは、新曲の「MAICCA~まいっか~」と共に2曲がランクインするなど、空前のブームを巻き起こした。

「海外のヒップホップは人種差別に苦悩する少年たちの怒りや、成功して名誉や金銭を掴みたいという思いを歌っていることが多く、当時はまだ“不良がやる音楽”だと思われている節もありました。でも、僕にとってのヒップホップは『自分の生活を歌うこと』だったので、当時大学生だった僕の周りで起きている出来事や、些細な悩みテーマにして、生活感のある楽曲作りを進めていきました。人生で初めてチャートにランクインした時は本当に嬉しかったですし、全国に楽曲が広まっていった頃には、まるで世の中が一変したかのような感覚を味わいました」

“遊び”で会場を盛り上げて

 そして、「DA.YO.NE」の勢いは止まることを知らず、各地の方言を交えたローカルバージョンも作られ、さらなる広がりを見せていくことに。

「一部のメンバーは戸惑いを感じているように見えましたが、僕自身はその流れを好意的に受け止めていました。というのも、ライブツアーで各地に出向いた時に『DA.YO.NE』の部分を現地の方言に変えて歌ったら、多くの方に喜んでいただけたんです。僕ら自身でも、日頃からそのような“遊び”で会場を盛り上げていたので、ローカル版が広まっていく状況を楽しんでいたように思います」

 そうGAKU-MCは懐かしげに思い出を語るが…。アルバム「denim-ed soul 2」が発売された1995年6月には、グループセールスの累計が400万枚を突破。「DA.YO.NE」は新語・流行語大賞にノミネートされるなど、その勢いは加速していった。

送られてきた1年分のシャンプー

「色々なところでチヤホヤされるようになったものの、『DA.YO.NE』のヒットから半年くらいは、皆さんの想像よりもはるかに財布の中身が軽い中で、多忙な日々を過ごしていました。西麻布にある叙々苑游玄亭に連れていってもらって大喜びしたり、CMに出演した時に送っていただいたシャンプー1年分の量に驚かされたり、ロサンゼルスにCMやPVの撮影に出かけたり、何かと楽しい日々を過ごしていたように思います」

 そして、凄まじい快進撃を続けた1年は、ヒップホップグループとしては初の出場を決めたNHK紅白歌合戦で締め括られた。

「それまでは『あなたの音楽はまるでお経のようで、何を言っているのかよくわからない』と話していた母や、『僕のことを話したら会社の若手社員に驚かれた』という父の喜ぶ姿が微笑ましく見えて、自分でも嬉しく感じました。とにかく多忙に過ごしていましたが、その中でも充実した思いを感じながら過ごしていたことを記憶しています」

 だが、社会現象を巻き起こした翌年の1996年にEAST END×YURIが、1998年にはEAST ENDも活動休止を発表。GAKU-MCは音楽人生の岐路に立たされることとなった(第2回に続く)。

第2回【「DA.YO.NE」のヒットから30年…54歳になった「GAKU-MC」が大切にするイマジネーションを生み出す“時間”とは】では、突然の大成功を収めたGAKU-MCを襲った迷いや、そこから這い出したきっかけ、そして現在の活動を支えるある習慣について語っている。

ライター・白鳥純一

デイリー新潮編集部

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