「有本明弘さん」が拉致問題で怒りを燃やした3名の日本人 闘い続けた相手は北朝鮮・金正日だけではなかった
2月15日、拉致被害者・有本恵子さんの父、有本明弘さんが神戸市内の自宅で死去した。享年96。妻・嘉代子さんは5年前に没し、ついに両親とも恵子さんと再会することは叶わなかった。愛娘を連れ去った北朝鮮への憎しみは終生消えることはなかったが、同様に怒りの対象とした3人の日本人もいた。
***
有本さんは兵庫県明石市で鉄工所を営みながら、妻・嘉代子さんとの間に一男五女をもうけた。一家の運命を暗転したのは1983年。当時23歳だった三女の恵子さんが留学先のヨーロッパで突如、消息を絶ったのだ。以来、行方はようとして知れなかった。
消息の糸口を掴んだのは1988年9月のこと。同じくヨーロッパ留学中に姿を消した石岡亨さんの母(札幌市在住)からの連絡だった。母の元に石岡さんから第三者を経由して手紙が届き、そこには恵子さんと共に北朝鮮にいるという衝撃の事実が書かれていた。恵子さんは拉致された疑いが濃厚となり、有本さん夫婦は、横田めぐみさんの両親らと共に、後に拉致被害者家族連絡会(家族会)を結成し、救出運動に全力を挙げる。
また、2002年には、赤軍派のよど号ハイジャック犯メンバーの元妻・八尾恵が法廷で拉致への関与を告白。ハイジャック後、北朝鮮に亡命していたメンバーが、北の命令で恵子さんを騙して北朝鮮に連れ去ったと証言した。
死亡を告げられた時は……
事態が大きく動いたのは2002年、小泉純一郎首相(当時)の訪朝だった。金正日・国家主席との首脳会談の場で、恵子さんは入国したものの、ガス中毒で1988年に死去していたと告げられたのだ。「週刊新潮」2002年10月3日号では、その連絡を有本さん夫妻が受けた際の様子を報じている。記事によれば、港区麻布台の外務省飯倉公館2階応接室で、植竹繁雄外務副大臣と佐藤重和審議官が被害者家族を順番に部屋に呼び入れ、北の認めた内容を伝えた。横田さんの両親に続き、入室したのが有本さんだったという。
<次に入室した有本恵子さんの両親も死亡を告げられると、「いつ? どこで? あの手紙だな、殺されたのは。あの手紙が原因だな!」と、父親の明弘さんが叫ぶ。母親の嘉代子さんは、ハンカチを千切れんばかりに引っ張り、ただ唇を震わせるだけだった>
北が発表した死亡日時は1988年の11月。これが正しいとすれば、石岡さんの下に手紙が到着したわずか2カ月後に死亡したことになる。拉致の事実が明らかになり、慌てた北によって口封じのために殺された――明弘さんがそう考えたのも無理はない。
もっとも、その後、北朝鮮の提出した死亡確認書に記載された恵子さんの生年月日が実際とは違うことがわかり、また、1988年以降も北で恵子さんの目撃情報が出てきた。夫妻は恵子さんの生存を信じ、家族会の副代表を務めるなど活動を続けてきたのだ。
[1/3ページ]