「問題は彼の政策ではなく、傲慢さ」 英国政府が最も注目した政治家・小沢一郎 機密ファイルを読み解く

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「総理より権力を握っている」

 英国が本格的に小沢に注目したのは、1990年の初めのようだ。

 小沢はこの年、4月に都内の経団連、6月に日本経済研究センターで講演を行った。参加者の多くはビジネスマンで、話題は日米関係や政治改革。そこに英国大使館は、日本語に堪能なスタッフを送り、発言を記録させた。「いずれ総理になるかもしれないが、すでに(当時の)海部(俊樹)総理より権力を握っている」という。

 小沢はまだ48歳、自民党の幹事長だった頃だ。そして90年2月の総選挙で、自民党は275議席という安定多数を獲得した。この選挙戦を仕切ったのが小沢で、一躍脚光を浴びる。また海部政権は、最大派閥竹下(登)派のかいらいとされ、その幹部の小沢は無視できなかった。

 その後、幹事長を辞め、竹下派会長代行になるが、英国はその人脈、政策をチェックし続けた。思わぬ事態が起きたのは、91年6月29日である。

小沢の運命を変えた事件

 この日、小沢が自宅で胸の痛みを訴え、日本医科大学付属病院に搬送された。診察で「軽い狭心症」とされ、しばらく入院することになった。永田町は色めき立つが、周辺は、脈拍や血圧も正常に戻った、心配ないと強調する。見舞いに来た竹下派の金丸信会長らを見送る小沢の姿を、わざわざマスコミに見せるくらいだった。

 だが、英国側はうのみにしなかったようだ。10月に自民党総裁選を控え、彼の入院は政界地図を塗り替えかねない。独自に健康状態を探り、その情報源の一人が自民党の国会議員、与謝野馨だった。

 かつて中曽根康弘元総理の秘書で、商工族として頭角を現した与謝野は、政局の情報を渡した際、「小沢の病状は重く、今後2~3年は無理できない」と伝えたらしい。実際、その後の小沢は、背広の内ポケットにニトログリセリンの錠剤を入れている。これでは、総理になるのは無理だ。

 その秋、海部内閣は政治改革を巡って退陣し、11月、宮澤喜一内閣が発足した。だが、これとて竹下派の力が強く、政策も好きにできない。党内の力学は不変だ。

 ところが、それから間もなく、平成の日本を揺るがすスキャンダルが浮上した。これが竹下派を分裂、自民党を下野させ、小沢の運命を変えてしまった。東京佐川急便事件である。

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