桐島聡の同志が語った、49年間自首しなかった理由 「逃亡生活でしんどいのは人間関係」
昨年1月末、あまりに突然の“登場”で世間を騒然とさせた、半世紀に及ぶ逃亡犯・桐島聡。彼の死から1年、有志による「しのぶ会」が開かれた。“革命同志”も駆け付けて、故人への思いを語ったのだが……。
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1970年代、連続企業爆破事件を起こした過激派「東アジア反日武装戦線」。桐島は「さそり」なる部隊でゼネコンの爆破作戦に関わり、負傷者も出している。
75年5月、反日武装戦線のメンバーが一斉逮捕されたのを機に、逃亡。以後、もっとも有名な指名手配犯の一人となっていたが、昨年1月25日、急展開を迎える。神奈川県藤沢市に住む70歳の男が、末期がんで搬送された先の病院で、自分が桐島だと名乗り出たのである。が、その4日後、多くを語らぬまま死亡した。
「私にも責任がある」
その桐島を「しのぶ会」が、今月1日、過激派仲間や支援者らの呼びかけで行われた。都内の会場を80人ほどの聴衆が埋め尽くす。
まず黙とうから始まった会では、関係者がそれぞれの思いを述べていく。とりわけ聞き逃せないのは、「さそり」の同志・宇賀神寿一(うがじんひさいち)氏(72)と、東アジア反日武装戦線「大地の牙」の浴田(えきだ)由紀子氏(74)の弁だろう。
82年に逮捕され、21年間の獄中生活を経験した宇賀神氏は、
「桐島はなぜ湘南地域にしがみついていたのか。私にも責任があるんじゃないか」
と語った。事件当時、朝のニュースで一斉逮捕を知った宇賀神氏は、桐島と話し合い、別行動をすることに。その際、数カ月後に鎌倉の銭洗弁財天で再会しようと約束。約束の日、宇賀神氏は現地に赴いたが、ついに桐島とは会えなかった。
「私と再会の場所を決めて、待ち合わせていた覚えがずっと残っていたんじゃないか」
と、同志の胸中を推測したのだった。
一方の浴田氏は、桐島の逃亡の契機となった一斉逮捕で、逮捕された一人。後に超法規的措置で釈放されるが、95年に再び逮捕。2017年に出所していた。
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