【元阪神監督・吉田義男さん逝去】記憶に残る采配&パフォーマンス “神のお告げ退団”のグリーンウェルにも「ユーモラスな名セリフ」で湧かせた
阪神監督時代の1985年に球団初の日本一を達成した吉田義男さんが2月3日、脳梗塞で他界した。享年91。現役時代は華麗かつ堅実な守備で“今牛若丸”の異名をとり、現役引退後は3期8年間にわたって阪神の監督を務めた。タイガースひと筋に生きた吉田さんの記憶に残る采配やパフォーマンスを振り返ってみよう。【久保田龍雄/ライター】
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リリーフエース・福間納vs巨人・原辰徳
まず21年ぶりに阪神をリーグ優勝に導き、日本一を達成した85年には、今も語り継がれる名采配があった。
5月19日の巨人戦、3連勝中の阪神は延長10回、時間切れ引き分けまであと1人の2死一塁で、リリーフエース・福間納が4番・原辰徳に左越え2ランを被弾し、1対3で敗れた。
そして、因果はめぐる。翌20日の巨人戦、代打・佐野仙好の満塁弾と真弓明信の2ランで6対5と大逆転した直後の7回からマウンドに上がった福間は、前日と同じ2死一塁で再び原を打席に迎えた。
本塁打が出れば逆転という場面で、吉田監督がマウンドに足を運び、「勝負するのか?」と尋ねた。「させてください」とキッパリ答えた福間は、原を右飛に打ち取り、見事前日のお返しをした。
打たれた記憶がまだ生々しい翌日に同じ強打者とあえて勝負させ、雪辱させることによって、信頼と自信が生まれる。福間も「昨日の今日だし、原に投げさせてもらったことは、投手冥利に尽きる」と感無量だった。
西武との日本シリーズでも同様の采配が見られた。阪神の2勝1敗で迎えた第4戦、福間は、2対2の9回、“左キラー”西岡良洋に決勝2ランを浴び、負け投手になった。
翌日の第5戦、福間は4対2とリードした4回無死一、二塁でリリーフしたが、1死満塁になったところで、西武・広岡達朗監督は前日のヒーロー・西岡を代打に送ってきた。
この場面でも、吉田監督は福間を続投させる。「絶対抑える気持ちだった」という福間は、西岡をシュートで遊ゴロ併殺打に打ち取り、日本一に王手をかける3勝目に大きく貢献した。
「あのとき(巨人戦)も今日も、監督は僕に任せてくれた」(福間)
同年の阪神の栄冠は、「鉄は熱いうちに打て」の格言にも通じる機を逃さぬ吉田采配が奏功した結果と言えるだろう。
名言「ユニホームの縦縞を横縞にしても君が欲しい」
吉田監督は新聞の見出しになるような“言葉の達人”でもあった。1996年オフ、FA宣言した西武の主砲・清原和博を口説いた際の「ユニホームの縦縞を横縞にしても君が欲しい」の名文句はよく知られている。吉田監督の誠意と阪神側の破格の条件にグラッと来た清原は、最終的に「初恋なので許してください」と初志貫徹して巨人に移籍したが、後年「阪神に行ってたら、どうなってたんかなってのは、ずっと今でもあります」と回想している。
清原を獲得できなかった阪神は、新4番候補として現役メジャー通算130本塁打のグリーンウェルを入団させたが、右足指を骨折し、わずか7試合に出場しただけで“神のお告げ”退団。この電撃退団劇に際しても、吉田監督は「なんや、嵐のように来て、嵐のように去って行きましたなあ」とユーモラスな名セリフを口にしている。
そのグリーンウェルが帰国した翌々日、5月17日のヤクルト戦でも、2回の攻撃中に印象的な場面があった。
2点を追う阪神は、2死一、二塁で中込伸が投前へのゴロ。捕球したブロスは中込にタッチしたが、米3Aから派遣されたマイク・ディミュロ球審はなぜか何のコールもしない。そこで、ブロスが念のため一塁にも送球したところ、中込の背中に当たってしまった。
悪送球で一塁セーフと思われた矢先、ディミュロ球審が遅まきながらアウトをコールしたことから、吉田監督がベンチを飛び出し、「ホワイ? カモン・ヒア!コンプレイン!(なぜや?こっちに来て説明せえ)」とブロークン“浪花イングリッシュ”で激しく抗議した。
さらにベンチから通訳が駆けつけると、「ええから」と右手で制し、「ジャスト・トゥー・スロー!」とジャッジの遅さを難詰したが、その際に指がディミュロ球審の腹を触れる形になり、退場宣告を受けてしまう。これが現役時代も含めて初めての退場だった。
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