超多忙でも「みのもんた」が銀座に通い続けた理由…“不遇の時代”に実父がポツリとつぶやいた「ありがてえ」の意味

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 俳優、歌手、タレント、芸人……第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いは何か――。コラムニストの峯田淳さんは、日刊ゲンダイ編集委員として数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけています。そんな峯田さんが綴る「人生を変えた『あの人』のひと言」。第3回は、かつてギネス認定されるほどいくつものレギュラー番組を抱えた、司会者のみのもんたさん(80)です。

4、5軒回って車の中で脱力

 酒豪、豪放磊落な飲み方で知られるテレビ界の有名人は誰かと訊かれると、真っ先に思い浮かぶのやはり、みのもんた。それに異論を挟む余地はないだろう。

 みのが銀座で豪遊する様子を、文化放送の後輩アナウンサーである梶原しげるはこう語った。「日刊ゲンダイ」(2019年2月14日)から引用する。

「店を回るペースが速くてね。席に着いて、飲んでしゃベってたと思ったらほんのちょっとで『じゃあ』と言って席を立ち、また次の店に移動する。そうやって一晩で4、5軒回り、最後はお抱え運転手の待つセンチュリーの中でグテッと脱力しちゃう」

 飲んでいるうちに話が盛り上がった時には、梶原はみのと一緒に、裸になったこともあったとか。

 しかし、これは人気司会者として世に認められてからの姿であって、売れていなかった頃の話を聞くと、他人にはうかがい知れない苦労人の素顔が見えてくる。

 みのは1967年に文化放送にアナウンサーとして入社した。「セイ!ヤング」の司会者として人気になったものの、人事異動で営業部に回された。この理不尽な会社のやり方に不本意だったみのは35歳の時に辞表を叩きつけ、フリーになる。

 だが、まだまだ一人前とはいえない若造に、誰もハナを引っかけない。逗子に買った建売住宅のローンの支払いに窮し、夫人は実家の冷蔵庫から食べ物を持って帰って来るような日々が続いた。

 もう限界。そんな時に父親から「うちの会社で働かないか」と誘われた。みのの父・御法川正男は水道メーターのメーカー、ニッコクの社長。渡りに船とばかりに入社し、平社員として営業マン兼運転手からスタートした。給料は文化放送時代の18万円から12万円に減った。それでも定期収入があるのは助かる。

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