「7人のイラン人」が梯子を作って塀を乗り越え…96年の旧東京拘置所「集団脱走」事件で「110番通報まで1時間以上」かかった驚きの内部事情

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 近年の日本で物議を醸している問題の1つといえば外国人による犯罪だ。令和6年度の犯罪白書によると、令和5年の外国人による刑法犯の検挙件数は1万5541件(前年比20%増)、同検挙人員は9726人(同11.8%増)。刑法犯検挙人員の総数に占める外国人の比率は5.3%となっている。

 日本における外国人の犯罪が注目される状況は今が初めてではない。90年代にも 「変造テレカ」「覚醒剤」「不法滞在」などの言葉とともに、急増したイラン人による犯罪が頻繁に報じられていた。急増の背景には不安定なイラン情勢があったものの、日本政府は1992年4月にイランとのビザ免除協定を停止。東京の上野公園や代々木公園などにあふれていたイラン人の姿は目に見えて減っていった。

 それでも犯罪はなくならず、1996年2月12日には東京拘置所(東京都葛飾区)でイラン人7人の集団脱走事件が発生した。日本最大を誇る同拘置所での脱走は40年ぶり。当時はオウム真理教の関係者も収容されていただけに、警備体制への疑問が噴出したのも当然である。7人が脱走に成功した理由を追った「週刊新潮」の特集記事からは、なんともお粗末だった当時の警備事情や、今に通じる“外国人犯罪者の思考”が垣間見えるのだった。

(全2回の第1回:「週刊新潮」1996年2月29日号「東京拘置所『七人脱獄』が暴いた慢性警備堕落」をもとに再構成しました。文中の年齢、肩書き等は掲載当時のものです)

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チャップリンが褒めた建物から脱走

 東京拘置所は昔、小菅刑務所と呼ばれていた。発足は古く、明治11(1878)年に小菅監獄所として創監。敗戦後、巣鴨の東京拘置所がGHQに接収され、小菅に移転して来たため、昭和33(1958)年まで刑務所と拘置所が併設されていた。

 巣鴨が接収解除になってから再び小菅刑務所として発足したものの、昭和44(1969)年、栃木県黒羽町に移転。2年後に刑務所は廃監。以後、東京拘置所として今日に至っている。

 妙な話だが、小菅刑務所はその処遇の良さで昔から犯罪者の間に知られていた。関東大震災の折には、外塀がほとんど倒壊し、建物も大半が倒れて十数人の死傷者が出たのに、1人の脱獄者もいなかった。また、戦前に、かのチャップリンが来日した折、小菅刑務所を見学。「非常に部屋が明るくて居心地が良さそうだ。ホテルのおれの部屋より明るいぜ」
 と言ったという(佐藤清彦『脱獄者たち』より)。

 実は、チャップリンが褒め上げたその建物に、今回脱獄したイラン人が収監されていたのだ。なんと、今年で築67年になる老朽獄舎なのである。建て替えについての調査費が昨年度予算に計上されたばかりだ。

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