「男と女の出会いが軽くなった」作詞家・阿久悠さんの危機感 「惚れた、はれた」を嫌い、自立する女性を「一文字」で表現
シティポップ再評価など、昭和、平成のヒット曲への注目度は高く、テレビでもよく特集される。人によって感じる魅力はさまざまだろうが、分かりやすいメロディーに加えて、時に文学的、時に不思議な歌詞が頭にこびりついて離れない、という方も多いだろう。
昭和を代表する作詞家といえば、真っ先に名前が挙がるのは阿久悠さん(1937-2007)。生きていれば今年、米寿を迎えるはずだった。作詞を担当したヒット曲は、タイトルを並べるだけでサビや歌い出しの歌詞が頭に浮かぶ、そんな言葉の力を持つものばかりだと言えそうだ。
「ジョニィへの伝言」(ペドロ&カプリシャス)
「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)
「北の宿から」(都はるみ)
「勝手にしやがれ」(沢田研二)
「気絶するほど悩ましい」(Char)
「もしもピアノが弾けたなら」(西田敏行)
「宇宙戦艦ヤマト」(ささきいさお)
「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり)
一人の人間からこれだけ多彩な歌詞が生み出され続けていたのである。その言葉の重さに衝撃を受けたと振り返るのは元朝日新聞記者の小泉信一さんだ。各界の有名人の最期の日々を描いた著書『スターの臨終』の阿久悠さんの章は、こんな文章から始まる。
「新聞記者歴35年。数え切れないほどインタビューをしてきたが、作詞家・阿久悠ほど、そのとき発した言葉がいまも重く響く人はいない」
阿久さんの歌詞はなぜ人々の心をつかみ続けたのか。インタビューや作品をもとに小泉さんは読み解いていく。以下、同書から抜粋してみよう。
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亡くなる9カ月前の2006年11月。東京・六本木の事務所でお会いした。「男と女の愛をどう描くか」について話題になったとき、彼はこう言った。
「僕は大体、怨念や情念が苦手。虚無的な人間が一瞬だけでも虚無を忘れて愛に溺れ、愛に墜ち、熱が冷めるとやはり虚無の中にあるというのが好きなのです」
このときは、阿久が作詞した「舟唄」(作曲・浜圭介、1979年)が効果的に使われた映画「駅 STATION」(1981年)の取材だった。主演・高倉健。舞台となった北海道増毛町の居酒屋の女主人を倍賞千恵子が演じている。
雪がしんしんと降り積もる大晦日。赤ちょうちんがともる居酒屋で巡り合った男と女。お互いに言いようのない孤独を抱えていたからこそ、魂が揺さぶられるような刹那的な愛を感じたのだろう。
「最近は男と女の出会いが軽くなった。詞になる気配があまり感じられない」と語っていた阿久にとっては、まさにうってつけの映画だったと言える。ヒットメーカーとして時代に寄り添う言葉を探し続けてきた阿久は、「職業名は阿久悠」と称していた。腎臓にできたがんの除去手術を受けるため2001年9月、東京都内の病院に入ったとき、医師や看護師ら誰もが「阿久さん」と呼ぶことなく、本名の「深田公之さん」と呼んだ。
そのときの心境を著書『生きっぱなしの記』(日本経済新聞出版)でこう書いている。
「ぼくは、ぼくと社会を繋ぐ糸が断ち切られた気持ちになり、ただの六十四歳の、手強い病気を抱えた深田公之だと思い知らされるのである」
阿久は、決して自分の本名が嫌いだったわけではない。本名・深田公之で生きた時間を恥じているわけでもなかった。三十数年、阿久悠と呼ばれてきただけに、阿久悠を取り上げられたような感覚が何とも心細くさせたのだろう。
美空ひばりとの関係
生涯に5000曲の歌詞を書き、シングル売り上げは作詞家としてはトップクラスの 6800万枚強。オーディション番組「スター誕生!」(日本テレビ)は企画から関わり、審査員も務めた「歌謡界の巨人」阿久は、常に時代と向き合ってきた。
「歌が迷子になっている。大人の歌がないので、王道に導いて欲しい」と八代亜紀に伝えたこともあった。
ここで阿久の簡単な経歴を振り返りたい。1937(昭和12)年2月7日、兵庫県の淡路島に生まれた。父親は警察官だった。この3カ月後に生まれたのが美空ひばりである。阿久は終生、ひばりを意識していた。
「大体ぼくは意地の強い方なので、この人にはかなわないやとはめったに思わないのだが、何故か彼女には、最初からかなうはずのない人、という思いがあった」(『愛すべき名歌たち 私的歌謡曲史』岩波新書)
世の中の動きに耳を澄ませ、あるときは過激な、あるときは斬新な言葉をちりばめ、言葉の魔術師といわれた阿久。真っ正面からひばりと向き合ってこなかったことは事実だろうが、実は逃げたのではなく、ひばりで完成した歌の本道とは違う道を歩みたかったに違いない。
阿久は、明治大学文学部を卒業後、広告代理店に勤務。テレビ番組の企画などを手がけた後の1966年、フリーとなり、作詞を中心に執筆活動に入った。特に、これまでの日本の歌謡界を打ち壊したいという意欲を持って作詞活動を展開したのではないだろうか。男と女の情愛についても、「惚れた、はれた」のめめしい世界観を嫌った。
言葉一文字にこだわった。都はるみの「北の宿から」は「女ごころの未練でしょう」と歌い上げる。それまでの演歌のつくりだと「未練でしょうか」と問いかける形になるところを、あえて「か」を抜いた。自分を客観視し、自立する女性を登場させたのが阿久だった。都は以前、私の取材に「『あなた死んでもいいですか』なんて言いながら、この女は絶対に死なないなと思う。強い女なんです。私に似ているなと思った」と話したことがある。
阿久の詞は、人間関係が希薄になりがちな現代社会へのSOSだったかもしれない。阿久は「時代の飢餓感にボールをぶつける」ことを自分に課していた。世の中が豊かになっても満たされないものがある、と。象徴的なのは、河島英五(1952─2001)の「時代おくれ」(作曲・森田公一、86年)だろう。
《目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず》
この国がバブルに浮かれ始めた86年、49歳のとき発表した。親友の上村一夫(1940─1986)が45歳で急逝した年だ。劇画「同棲時代」で一世を風靡し、「天才」といわれた漫画家。「彼の死がぼくを変えた。天下を取る気でいたのが空しくなった」と阿久は語っている。
昭和が輝いていた時代を懸命に生きた阿久。けれど、「ちょっと止まって足元を見ようよ」と私たちに伝えたかったのではないか。
阿久は2007年8月1日、尿管がんのため都内の病院で逝った。享年70。死と向き合いつつも、執筆の意欲は失わなかった。病は阿久の肉体を奪ったが、魂を奪うことはできなかった。
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現在、阿久さんの数々の名曲はサブスクで聴くこともできる。また、母校、明治大学には阿久悠記念館が開設されており、その歩みや偉業の数々を目にすることも可能だ。何かと騒がしい時代、「ちょっと止まって足元を見ようよ」というメッセージは今もなお有効なものかもしれない。