日枝久氏を辞めさせるのが「非常に難しい」理由とは フジ元役員が明かす

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“クーデター”の大義名分

「メディアの帝王」とも呼ばれた鹿内(しかない)信隆氏がフジサンケイグループ会議の議長に就任したのは1968年のことだった。

「元々はフジテレビ、産経新聞、ニッポン放送の中核3社の社長による三人代表制を取っていたのですが、信隆氏が他の二人を放逐し、議長の座に就いたのです。フジサンケイグループ会議は任意団体であり法人格を持ちませんが、議長はグループ全体(文化放送を除く)を支配する立場にありました」

 そう解説するのは、『メディアの支配者』でフジ内部の権力闘争を描いたジャーナリストの中川一徳氏だ。

 85年に信隆氏から議長を引き継いだ長男の春雄氏はその3年後に42歳で急逝。一時的に信隆氏の元に戻った議長の座は90年、氏の娘婿で養子の宏明氏に受け継がれた。「3代目議長」である宏明氏の会長解任を求める動議が産経新聞社の取締役会で可決・成立したのは92年。この「クーデター」を主導したのが、88年にフジの社長に就任していた日枝氏だ。

「クーデターを仕掛けた時の大義名分は“テレビ、新聞、ラジオというそれぞれ独立性を持つメディアの権力が、グループ全体で一人に集中しているのはおかしい”というものでした。そのため、クーデター成功後、議長という地位は廃止され、代表という肩書にした。代表には小林吉彦さんという長老を据え、形ばかりの役職となったのです」(同)

日枝氏にとっての「潜在的恐怖」

 クーデターを成功させた日枝氏の権力基盤はまだ盤石ではなかった。以下、中川氏が続ける。

「当時、ニッポン放送はフジの株の51%を持つ親会社でした。つまりニッポン放送には、フジの社長だった日枝氏の解任を求める権限があったのです。そして、鹿内家と宏明氏はニッポン放送の株を約13%保有する筆頭株主でした。こうしたことが、日枝氏が立場を追われる潜在的恐怖となっており、権力を盤石にするためには絶対に解決しなければならない問題でした」

 そこで日枝氏が目指したのが、フジテレビ株の上場だった。上場すれば、ニッポン放送が保有するフジテレビ株の比率が希薄化されるからである。しかし当時は子会社のみの上場が法的に許されていなかったため、96年にニッポン放送、その翌年にフジが上場することになった。

「上場によってニッポン放送のフジテレビ株の持株比率は50%を切りました。これにより、日枝氏は潜在的な脅威を取り除くことができたわけです」

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