戦後80年でも消えない「引揚者の刻印」とは 作家・五木寛之が語る「禁じられた記憶」
2025年は終戦から80年となる。92歳になる作家・五木寛之さんは、多感な時期に終戦を迎え、平壌(ピョンヤン)から日本へ引き揚げざるを得なかった経験を持つ。その際の心情については『私の親鸞』(新潮選書)に詳しいが、ロシアのウクライナ侵攻やパレスチナでの紛争が始まると、祖国を離れる難民の姿をメディアで見るにつけ、胸が締め付けられたという。
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そして同じ大学で学んだ作家・三木卓さんが2023年に逝去されたとき、同じ「引揚者」でもあった彼の呟いた一言が忘れられなかったと、最新刊『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』(新潮選書)で語っている。以下、同書から一部抜粋・紹介する。
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大学構内のベンチで呟いたひと言
三木卓は本当にすぐれた詩人だった。
彼の訃報をきいた時には、これで一つの時代が終った、と感じた。
彼は私が大学生だった頃、同じ教室でロシア文学を学んだ仲間である。
冨田くん(編集部註:本名・冨田三樹)、と私たちは気やすく彼のことを呼んでいた。
一緒に文芸パンフレットを作り、時にはデモに参加したこともあった。
冨田くんは脚が不自由で、片方の脚をわずかに引きずるようにして歩く。
しかし、その歩き方には他者の助けを借りない確固たる格調があり、私たち仲間は一度も彼を支えたり、手伝ったりしたことがなかった。それをさせない矜持(きょうじ)というものを彼は常に身辺に漂わせていたからである。
あるとき、大学構内のベンチに坐(すわ)ってコッペパンを分け合って食べていると、ふと彼が呟(つぶや)いたのが、こんな言葉だった。
私にはすぐに冨田くんの言わんとすることがわかった。私も同じことを感じていたからである。
「ぼくらは同じ刻印を背おった人間だから」
彼は11歳で旧満州から引揚げてきた人間である。私もほぼ同じ年齢で平壌から引揚げてきた。
引揚者として生涯消えることのない印
ウクライナでの戦争が始まってから、私たちはくり返し祖国を離れる難民の姿を映像や写真で見た。生理的に胸が痛んだ。
しかし、難民は引揚者ではない。みずから国を離れた人びとである。
外地からの引揚者は、どこかそれとはちがう傷を刻印されているのだ。
引揚者とは、みずからの母国へ、追い返された人間だからである。いわば〈追放者〉といってもいいだろう。
私たちの背中には、追放者とされた人間の印(しるし)が刻印されている。その印は生涯消えることはない。
私たちは自らが育った土地を郷愁(きょうしゅう)で語ることはできない。それは禁じられた記憶である。
どれほど多くの少年少女、そして人々が追放者として戦後の時代を生き抜いてきたことか。
すでに外地引揚者、などという言葉も、死語になってしまった。そして、そのことはもう、語り継がれることもないだろう。歴史とは常に陽の当る世界だけを語るものだからである。
冨田くんは、詩人、文学者、三木卓として見事な作品をのこした。
いま、この列島に同じ刻印を背おった人々が、少しずつ消えていこうとしている。やがては引揚げの記憶を語る人もいなくなることだろう。
カミュの『異邦人(エトランジェ)』を、私は「引揚者」と、あえてねじ曲げて読んだものだった。それらの人々にとって「ふるさと」の歌に託されたイメージは、「うさぎ追いし かの山 小ぶな釣りし かの川」ではない。せめて彼が残した呟きを忘れないようにしよう。
※本記事は、五木寛之『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』(新潮選書)を一部抜粋したものです。