「吉田義男氏」死去で考えた もし「清原和博」が1996年に阪神に移籍していたら…FA争奪戦で、伝説の口説き文句「縦じまを横じまにしてもいい」が飛び出した

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巨人の熱意は…

 焦ったのは巨人だ。FA市場でライバル・阪神に負けるわけにはいかない。

 この年は読売新聞の渡辺恒雄社長が巨人のオーナーに就任した年だった。

「渡辺オーナーが清原獲得の号令を出した。巨人のフロントはこれが大きな後押しとなり、清原へ初めに提示した2年5億円を5年18億円へ、契約の条件を大幅に上乗せしました。巨人にとっても空前の大盤振る舞いでした。しかし巨人でも阪神のような10年契約という条件は出せなかった」(当時の巨人担当記者)。

 一方、現場にはフロントほどの熱意は感じられなかった。このとき巨人を指揮していたのは長嶋茂雄終身名誉監督である。

「あれはその年の春の宮崎キャンプでした。(長嶋)監督は、“清原はトラ(阪神)に行くんでしょ? 何か情報はありますか?”と逆取材をしてきました。その際、長嶋監督は身振り手振りで当時の清原氏のバッティングフォームを解説。清原の打撃では(苦手だった)インコースは絶対に打てないと断言していた」(前出の記者)。

母の一言

 チーム全体としての熱意は阪神の方が明らかに上だった。しかし、それを変えたのは、ある人物の一言だった。

 清原家の「家族会議」でのこと。清原の母(故・弘子さん、2019年死去、享年78歳)の「あんたの夢は巨人で4番になること」という一喝である。

 大阪府岸和田市で「清原電気商会」を経営していた清原の父母は、関西人でありながら生粋の巨人ファン。PL学園高校3年時の清原も巨人入りを熱望し、相思相愛と言われ、ドラフト1位指名は確実視されていた。しかし、ドラフト当日、巨人に指名されたのは、早稲田大学進学を公言していた同級生の桑田真澄(現・巨人2軍監督)。清原は大きなショックを受けた。その経緯も含め、母は高校時に抱いた夢を忘れるな、と言ったのだ。

 清原自身も著書でこう述べている。

「“どっちが似合うかな?”父と母の前で2つの帽子を交互にかぶって見せた。自分は、巨人と阪神のどちらに行くべきかと聞いたつもりだった。そこで母親がこう言ったのだ。“あんたの元々の夢は何なの。昔から、巨人に行きたかったやないの。あんたの夢はそんなに小さなものだったの?”その一言が、僕の目を覚ましてくれた」(清原和博著『男道』より)

 清原の母との絆は深い。事実上、清原はこれで巨人入りを決めた。

 その後、清原は読売新聞本社に長嶋監督と共に渡辺オーナーへ挨拶に出向いた。この時オーナーは「清原くん、きみは本当に素晴らしいお母様を持たれた」と大いに喜んでいたという。

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