吹き出す石油を前に「大事に育ててくれ」と涙…“日の丸油田”を打ち立てた「アラビア太郎」が“1回で10数億円が吹っ飛ぶ大博打”に勝った瞬間

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山下氏亡き後は天下り先に

 さて、アラビア石油の方は、小長啓一・元通産事務次官が3月の株主総会で社長に就任する、というニュースが流れているものの、業績の方はいまひとつ。先の池田氏が言う。

「石油が出た当初、日本の石油の輸入量の10%を目標にして おり、それは達成できました。ピークは10年前で、シェアは14%を誇りましたが、現在は5%くらい。私どもの産出する石油は硫黄分の多い重質油で、業界ではあまりもてない。また、日本での石油消費量がどんどん増えてきましたから、生産量が決まっている私どものシェアが落ちるのは仕方ないんです」

「アラビア太郎」の心意気はともかく、石油ダブつき時代の今日にあっては、“日の丸石油”も官僚の天下り先になっているだけのようなのだ。

(「週刊新潮」1989年3月2日号「国際石油資本に挑んだ『山下太郎』の功罪評価」を再編集・加筆しました)

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アラビア石油と“日の丸油田”のその後

 大博打に勝ち、アラビア太郎として名を馳せた山内氏。アラビア石油は現在も富士石油株式会社の子会社として存続しているものの、かつての「日本で唯一の自主開発石油会社」ではない。

 アラビア石油は 昭和35(1960)年1月に発見したカフジ油田を皮切りに、63年にフート油田、67年にルル油田とドラガス油田(ともに未開発)も掘り当てた。1991年には湾岸戦争で操業を一時停止しつつも、90年代後半から利権協定の延長に向けて交渉を始める。

 しかし延長交渉は難航し、2000年にはサウジアラビアとの利権協定が終了したためアラムコとの共同操業に移行。2003年にはクウェートとの利権協定も終了し、新たに技術サービスや原油販売を含む複数の契約を結んだ。同社と富士石油との経営統合も同年に行われている。

 元駐リビア大使の塩尻宏氏は朝日新聞デジタルへの寄稿(2013年5月7日付)で、中近東第二課に所属していた当時に見た延長交渉の裏側を明かしている。日本側は利権協定の延長を目指して様々な働きかけを行ったが、紆余曲折の末、サウジアラビア側が提示した鉄道建設計画への協力要請に戸惑った当時のアラビア石油首脳が「言を左右にして態度を明確にしないまま交渉期限切れ」となった。

 塩尻氏はこの協力要請への対案を考える過程で「アラビア石油、通産省、外務省の三角関係を目の当たりにして唖然とすると同時に、同社の先行きを考えて心穏やかではなかった」という。なお、山下氏没後の社長は「通産省OBの指定席」だった。

 同社は2013年に分割子会社を設立し、JX日鉱日石開発株式会社(現・JX石油開発)に譲渡。これにより、海外石油開発事業からの実質的な撤退に至った。なおカフジ油田などでは現在もサウジアラムコ(1998年設立)が操業を続けている。

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 先に「満州太郎」の異名を取った山下氏は、いったいなぜ海外での石油開発に意欲を燃やすようになったのか――。第1回【中東で石油開発権を獲得した初の日本人「アラビア太郎」 高度経済成長期の日本を沸かせた“怪物実業家”の波乱に満ちた人生】は、生い立ちやサウジアラビアの国王に贈り物をした交渉の日々を伝えている。

デイリー新潮編集部

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