中東で石油開発権を獲得した初の日本人「アラビア太郎」 高度経済成長期の日本を沸かせた“怪物実業家”の波乱に満ちた人生

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満州事変のおかげで一夜にして大家主

 まあ、大博打に勝ったようなものだったかもしれない。大博打といえば、この山下氏、とかく胡散くさい目で見られたりもしていた。「ヤツは、タヌキだ。山下からタを抜けば、山師になる」などと言われたりもしている。あるいは「私は楠公の第26代である」と自ら触れ回ったことが、インチキ臭く思われた一因だろうか。

 それはともかくとして、巷間伝えられる山下氏の経歴を簡単に紹介しておくと――

 明治22(1889)年、秋田県の農家の三男坊に生まれる。北大の農芸学科を出て、上京。オブラートの会社を興す一方、ロシア革命でウラジオストクに山と積まれた缶詰を捨て値で買い占めて大儲け。中国の江蘇米の密輸入を図って大損もしたが、満鉄の社宅を建設したことが幸運を呼ぶ。満州事変のおかげで、借物の土地が自分の物となり、一夜にして5万戸の大家主になってしまったのだ。このころ取った異名が「満州太郎」。

アラビア国王のもとへ何回も足を選び

 一種の“怪物”視されていたわけだが、この”怪物“が再び表舞台に顔を出すのは、昭和30年代になってから。海外での石油開発に意欲を燃やすようになったのである。

「山下さんが石油に目を向けたのは、若いころから公共性のある事業に好んで着手していたこと。ものすごく儲かりそうだったこと。それから、『日本はエネルギーを持っていないとダメだ』というポリシーがあったからです。第二次大戦は、日本への石油禁輸があって、日本が戦争に踏み切ったわけですから、石油、エネルギーの必要性を痛感していたのです」

 と、当時、山下氏の下で企画部調査役を務めた池田幸光氏(アラビア石油顧問)は言う。

「山下さんは、まず、石油のノウハウを得るために、昭和31(1956)年に日本輸出石油株式会社を作り、石油製品を輸出したり、世界一大きなタンカーを建造させた。石油開発権を巡って争っていた時は、サウジアラビアの国王のもとへ何回も足を選びましたよ。

 アラビア人というのは、贈り物を非常に喜ぶ国民ですから、山下さんは国王にいろいろな贈り物をしていました。当時、100万円くらいした本物の鎧や兜を贈ったり、日本の焼物を贈ったり。中には松の盆栽なんてのもありましたよ。アラビアのような乾燥したところでは、1カ月で枯れてしまいましたけれどね」

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 サウジアラビアとクウェートとの利権協定締結に成功した山下氏は、海底油田での試掘を開始する。1本試掘するたびに10数億円が吹っ飛ぶ「空前絶後の大博打」は当たるのか――。第2回【吹き出す石油を前に「大事に育ててくれ」と涙…“日の丸油田”を打ち立てた「アラビア太郎」が“1回で10数億円が吹っ飛ぶ大博打”に勝った瞬間】では、その後のアラビア石油までを伝える。

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