中東で石油開発権を獲得した初の日本人「アラビア太郎」 高度経済成長期の日本を沸かせた“怪物実業家”の波乱に満ちた人生
1955年頃から始まった日本の高度経済成長期は、その後の経済成長の基礎となった重要な時期である。一般家庭にもテレビ・洗濯機・冷蔵庫の「三種の神器」が広まるなど、国民は新しい商品、文化、考えを積極的に受け入れた。「日本はまだまだ先へ行ける」というモチベーションが日本を包むなか、世間をあっと驚かせた実業家も登場している。
そんな実業家の1人が、昭和33(1958)年2月10日にアラビア石油株式会社を設立した山下太郎氏だ。第一次世界大戦と太平洋戦争を経て「石油、エネルギーの必要性を痛感していた」という山下氏は、日本人として初めて中東の石油開発権を得た。絶大な資金力を誇る欧米企業を出し抜いたこの展開は大きな話題となり、山下氏は「アラビア太郎」と呼ばれるようになった。
昭和42(1967)年6月9日に78歳で死去した山下氏はどのような人物だったのか。まずは「週刊新潮」1989年3月2日号から、山下氏の下で企画部調査役を務めた池田幸光氏の貴重な証言をみてみよう。
(全2回の第1回:「週刊新潮」1989年3月2日号「国際石油資本に挑んだ『山下太郎』の功罪評価」を再編集・加筆しました。文中の肩書きは掲載当時のままです)
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当時の日本人から見れば快挙
メジャーと呼ばれる国際資本は、長年、世界の石油の宝庫・中東での石油生産を一手に掌握してきた。その“巨人”に挑み、見事、ペルシャ湾中立地帯沖合の石油開発権を獲得したのが、「アラビア太郎」こと、アラビア石油の山下太郎社長だった。
昭和32(1957)年、日本人として初めて中東の石油開発権を得た時、「生涯における最大の感激であった」と、山下氏が述懐したのも無理はない。競争相手だった英国のシェル石油にしても、米のアラムコ(注:記事掲載当時の株主は米企業4社)にしても、日本側とはケタ違いの資金を有していたのだ。
「私は実際にサウジアラビアに行って見たのですが、例えば、アラムコの社宅は、大学のような敷地の中にある三階建ての石造りの豪華なもの。それに対して、アラビア石油の社宅は、砂地の上にトレーラーを並べたような粗末な平屋。帝国ホテルと小さなトンカツ屋くらいの差がありましたよ」
と語るのは、『アラビア太郎』(講談社+α文庫)の著書がある作家の杉森久英氏。
「それほど資金量に差があったにもかかわらず、開発権を獲得した。日本は戦争に負けて、外国に対して、皆シュンとしていたわけで、そんな時、アラビアの一角に日の丸の旗を立てたのですからね、これは当時の日本人から見れば快挙でしたよ」
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