宮内庁長官を激怒させた朝日新聞の「病名報道」 昭和天皇崩御の舞台裏を当時の皇室担当記者が明かす

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「ご危篤」から「崩御」の会見

 筆者は前日深夜に「あす、陛下危篤の発表があるようだ」と同僚記者から聞いていたので、覚悟はできていた。翌7日午前5時ごろ、宿泊先のホテルの電話が鳴り、記者クラブ泊まりの同僚から「侍医長が朝早く自宅を出た」と連絡をもらう。

 午前6時前から宮内庁で取材を始めたが、皇太子ご一家や、竹下首相らが次々と天皇のお住まいの吹上御所に入ったので、「その時」が訪れたことを直感した。宮内庁の記者会見がいつもの記者クラブではなく、大きな講堂で行われる通告が6時20分ごろにあったので、重大発表があることも分かった。

 初めに「ご危篤」、続いて藤森長官による「崩御」の会見があり、さらに高木侍医長がご容体の経過を発表する。がんの原発部位はすい臓と十二指腸が近いので手術後にはすい臓がんとみられたが、最終的には腺がん(十二指腸周囲のがん)だったと説明し、陛下には秘して治療に当たっていたことを明らかにした。

大喪の礼の日取りを特報

 筆者はこの朝、宮内庁に入る前にホテルから、ある宮内庁幹部に電話した。かねて筆者は、陛下の大喪が行われる日を特報したいと考えていたので、以前よりその幹部に大喪の日の決め方を聞いていた。

 宮内庁では陵の造営工程を考慮し、大喪の日は陛下が亡くなられてから48日目を目安としていた。ところが、その日は新皇太子(浩宮さま)の誕生日(2月23日)と重なるので、将来の天皇誕生日となる日に大喪はできないという理由で外された。前倒しにすると江戸時代後期の第120代、仁孝天皇の命日で天皇例祭があるため2月24日しかないことになる。同日を宮内庁の希望案として政府に出すことが最終確認できたので、「天皇陛下崩御」の大見出しがある夕刊に、「『大喪の礼』は2月24日ごろ」との記事を入れることができた。実際、大喪の礼はこの日に行われている。

 崩御の日、三種の神器を新天皇に引き継ぐ皇位継承儀式の取材を終えて、ふと外を見ると、皇居坂下門前が、陛下との別れを惜しみ、弔問記帳に訪れた人々で埋まっていた。

斉藤勝久(さいとうかつひさ)
ジャーナリスト。1951年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞社会部で司法を担当したほか、86年から89年まで宮内庁担当として「昭和の最後の日」や平成への代替わりを取材。近著に『占領期日本 三つの闇 検閲・公職追放・疑獄』(幻冬舎新書、1月29日発売)。

週刊新潮 2025年2月6日号掲載

特別読物「ドキュメント 昭和天皇崩御~就寝中の下血で始まった『ご闘病111日間』 藤森宮内庁長官を激怒させた朝日の“病名報道”」より

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