宮内庁長官を激怒させた朝日新聞の「病名報道」 昭和天皇崩御の舞台裏を当時の皇室担当記者が明かす
「昏迷」状態に
ご病状取材はだんだんと長期戦の様相を呈してくる。「100メートルの短距離走だと思っていたら、グラウンド1周となり、やがてマラソンになっている」と侍医が語っていた。宮内記者会の記者は皇居近くのホテルで宿泊し、筆者は5日おきくらいには記者クラブ内に泊まって、その前後の日だけ夜に帰宅していた。
11月に入り、陛下は眠っていることが多くなった(傾眠)。皇室典範第16条2項の「摂政」設置要件「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないとき」に該当する事態になっていた。しかし、宮内庁の藤森長官は記者会見で摂政設置を否定した。筆者には、長官がかなり苦しい説明をしているのが分かった。別の宮内庁幹部に本音を聞くと、こんな答えだった。
「今は明らかに摂政を置くべき状態ではあるが、この深刻な状態がさらに半年とか1年とか長期化するとは思えない。ならば、摂政を設けるためにあえて国会などで混乱を招くことは避けたい。皇太子さまを国事行為の臨時代行とした今のままでいくしかないのだ」
12月になると陛下の意識レベルはさらに低下し、「昏迷」状態になった。強く呼びかけたり、痛みなどの刺激を与えたりすると体を動かす状態で、最も重い「昏睡」の一歩手前だ。宮内庁では新年を控えて、ご病状がこのまま推移した場合を前提に、新春行事と、お代替わりの行事の準備が同時に行われていた。
皇太子さまに無言で最敬礼
庁内では年末まで議論が続く。「陛下が大変な時に、参列者に酒や尾頭付きの鯛を振る舞っていいのか」と。最終的に、「お酒を飲むのは酔っ払うためではなく、新年が良い年であるように祈るためのもの」「鯛も自粛ブームの行き過ぎに、少しでもストップをかけることができれば」という考えで収まり、例年通りになった。多くの人が予想していなかった昭和64年を迎える感想を、高木侍医長に電話で聞いてみた。侍医長は「今の僕には新年も、曜日の感覚もない。だから、新年の感想なんてないよ。ただ、頑張るのみだね」と。本音だったと思う。
1月2日の一般参賀は皇族方のお出ましはなく、宮殿前での記帳だけとなった。ご病状は深刻さを増し、5日夕には昏睡状態となり、それ以降目を開けることはなかった。緊急輸血の効果もなく、最高血圧は70台に下がる。6日には危篤状態に。そして7日午前4時過ぎ、当直の侍医が「ターミナル・ステージ(最終段階)」と判断し、侍医団が集まる。駆け付けた皇族方がじっと見守る中、侍医長が聴診器を陛下の胸に当てると、心臓の音が聞こえるか聞こえないかの状態だった。何秒かして侍医が「心停止です」と告げる。侍医長はそれから1分ほど間をおいて、陛下が亡くなられたことを確認してから、皇太子さまに無言で最敬礼した。皇太子さまも黙って会釈した。午前6時33分、陛下は111日間に及ぶ闘病を静かに終えられた。がんによる痛みを感じていた形跡はなく、安らかなお顔で、静かにお休みになっている様子だった。こうして昭和が終わった。
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