宮内庁長官を激怒させた朝日新聞の「病名報道」 昭和天皇崩御の舞台裏を当時の皇室担当記者が明かす

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国民の前に姿を見せた最後

 戦没者追悼式が近づいて、宮内庁には慎重論があったが、陛下自ら「ぜひ出席したい」と強く希望する。少しでも体の負担を軽くするため、那須からヘリコプターで帰京。そして8月15日当日、陛下は日本武道館で全国戦没者之霊の標柱に向かったが、足取りが重いこともあり、正午の時報に合わせた黙とうが遅れてしまった。陛下の体は1分の黙とうの間、3回ほど大きく揺れる。前年までは陛下一人で標柱前に立たれていたが、今回はもしもの時に備えて侍従長がそばに付き従った。

「先の大戦において戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々やその遺族を思い、今もなお胸がいたみます」

 毎年ほぼ同じ内容だが、陛下はわが身に何があっても、8月15日には国民に直接訴えるのがご自分の務めと考えていた。だが、陛下が公式行事で国民の前に姿を見せるのはこれが最後となった。

 再び那須に戻ったものの、8月末には38度台の熱が出た。それにもかかわらず、陛下は9月2日に御用邸で宮内記者会とお会いになる。外は雨で寒く、陛下は上着の下にベストを着ていた。記帳台のへりなどをつかみ、伝い歩きをされていたのが痛々しかった。筆者が陛下のこうした姿を見たのは初めてで、戦没者追悼式から半月で急速に弱った様子だった。それでも頭はとてもしっかりしていて、「カゼをひき、皆に心配をかけたが、もうすっかり良くなったから安心してもらいたい」と語り、質問にも的確に答えていた。

 9月8日に帰京。そして、11日、皮膚などが黄色くなる黄疸(おうだん)が出た。すい臓近くにがんがあり、それが広がって胆汁(肝臓で作られる消化液)の流れを妨げたことによるものとみられた。

 お好きな相撲観戦が同18日に予定されていたが、38度を超える発熱で中止となる。原因は「胆道系(肝臓から十二指腸に至る胆汁の流路)の炎症の疑い」と発表された。「休火山」と思われていたがんの患部が、ついに動き出して「活火山」となったのである。

全国で自粛ムードが

 そして、運命の9月19日を迎える。午後10時前、御所2階の寝室で就寝中の陛下が突然、大量の血を吐き、下半身にも出血(下血)があった。高木侍医長をはじめ、宮内庁幹部が続々と深夜の皇居に駆け付ける。しかし、「菊のカーテン」に隠れたかのように、宮内庁からは何の説明もないまま日付が変わり、朝刊締め切りの時間が近づいていた。本社から記者クラブにいた筆者への指示は、「本当に一大事が起きているのか確実な証拠が欲しい」というものだった。御所に行って直接取材できないのが皇室担当のつらいところだ。時間的にもう夜回りする余裕などない。

 電話取材が何本か空振りする中で、最後にこんな趣旨の情報をつかむことができた。「皇太子さまが妃殿下とともに午前2時すぎ、皇居に駆け付ける。いつでも出発できるよう、東宮御所に何台かの車列ができている」。皇太子夫妻は前日午後、訪問先の山形県から帰京したばかりで、そのお二人がこんな夜中に皇居に向かうことこそ、皇室に一大事が起きた証拠である。その裏付け取材もできたので、「天皇陛下ご容体急変」の1面トップ記事に、「皇太子殿下、皇居へ」の大見出しを入れてもらった。初日は完徹となり、いよいよ「陛下ご闘病111日間」の取材が始まったのである。

 陛下はその後も吐血と下血を繰り返し、侍医団による緊急輸血や点滴など懸命な治療が続いた。宮内庁では1日3回、ご病状に関する記者会見、発表が行われ、ちょうどソウル五輪の開催中だったが、国内は陛下の容体報道ほぼ一色となった。秋の東京の恒例「大銀座まつり」が中止となるなど、全国で自粛ムードが広がっていく。

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