宮内庁長官を激怒させた朝日新聞の「病名報道」 昭和天皇崩御の舞台裏を当時の皇室担当記者が明かす

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 昭和63年9月19日、就寝中の天皇の容体が急変した。大量の吐血に下血も伴って、ここから111日間におよぶ闘病が始まる。侍医団は陛下にがんを伏せていたが、朝日新聞が病名を報道。宮内庁が激怒する一幕もあった。当時の皇室担当記者でジャーナリストの斉藤勝久氏が崩御までを振り返る。

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 開腹手術を受けた昭和天皇は、少しずつ健康を回復し、退院からちょうど1カ月後の昭和62年(1987年)11月7日、公務を再開した。中曽根康弘前首相と竹下登首相の新旧総理に相次いでお会いになる。

 年末には、沖縄への深い思いを詠んだお歌が発表された。

 思はざる病となりぬ沖縄を たづねて果さむつとめありしを

 新年に入っても、86歳の陛下は術後とは思えないほど元気に正月恒例の行事に臨んだ。元日には「新年祝賀の儀」に出席して、皇族をはじめ、首相や外国大使らのあいさつを受ける。翌2日、皇居での一般参賀で、手術以来初めて一般国民に姿を見せ、「私の健康について心配してくれて、ありがとう」と3回あいさつされた。

 3月にはお召列車で3時間ほどの下田の須崎御用邸へ。4月には国賓として来日したベネズエラ大統領との会見。この頃までは「健康時の8~9分までご回復」と高木顕(あきら)侍医長は判断していた。

 4月には87歳の誕生日会見もあった。質問事項は事前に知らせてあるので、陛下は例年、回答の紙を用意して読み上げるが、この時は何も見ずに記者側の質問に答えている。最初に健康について、「体調はよく回復したし、疲れもない。(手術が決定した時は)医者を信用しました」と答えた。

 この会見の核心でもある「第2次世界大戦」についてのくだりに入ると、陛下は座り直した。最後になるかもしれない天皇会見に、記者側として欠かせない質問だった。両目をつぶった陛下は、「何といっても、大戦のことが一番いやな思い出であります」と語り出した。その時、筆者は陛下の左頬に一筋の光るものがあるのに気が付いた。「戦後、国民が相協力して平和のために努めてくれたことを、うれしく思っています。どうか今後とも、そのことを忘れずに、平和を守ってくれることを期待しています」。口調に乱れはなかったが、涙が静かに頬を伝っていた。陛下は今、国民への遺言を語っているのだと感じた。

新たな時代を迎えるために宮内庁が始動

 ご回復と並行して、宮内庁の首脳人事が4月と6月に行われる。半世紀にわたって陛下のそばで仕えた徳川義寛侍従長(81)=当時、以下同じ=が勇退し、後任侍従長は宮内庁次長を10年務める山本悟氏(62)。そして新宮内庁次長には、政府主催の天皇陛下ご在位50年と60年記念式典を仕切り、官界有数の皇室通として知られた藤森昭一・元内閣官房副長官(61)が任命される。政府から宮内庁に送り込まれた藤森次長が、このわずか2カ月後に、富田朝彦(ともひこ)宮内庁長官(67)の後任となったことからも、政府、宮内庁が新たな時代を迎えるために動き出したのが分かる。記者たちは「国のお代替わり対策がいよいよ本格化した」と理解したのである。

 陛下は例年通り、夏の間は那須の御用邸で静養する予定になっていたが、侍医長には気になることがあった。陛下の体重が1月からずっと減り続け、特に6月からそれが目立つようになったのだ。7月末は47.6キロで、前月に比べ1.3キロの減。手術前より約10キロも落ち、体力の低下は明らかだった。「加齢現象だ」と侍医長は強気に弁明したが、本心ではとても心配だったようだ。陛下は皇后さまと共に7月20日に御用邸に入るが、この夏は雨が多い冷夏で高原の那須は寒く、陛下が「来なければよかった」と口にするほどだった。

 報道各社の担当記者は、御用邸周辺のペンションに交代で泊まり込み、御用邸の外に出て散策する陛下を取材。また、御用邸から帰京する侍従、侍医らと同じ列車に乗り込み、陛下の様子を聞いていた。

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