倹約家で知的な紳士…「スタン・ハンセン」が小橋建太に伝授していたウエスタン・ラリアット“必殺技の極意”とは

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日本のプロレスの25年はアメリカの50年

 1989年、40歳を境に、酒もタバコも止めたという。

「アスリートにとって、いいものであるわけがない」(ハンセン)

 それ以降も、全日本プロレスのトップであり続けた。団体の看板タイトルである三冠統一ヘビー級王座への最後の挑戦は1996年9月5日。王者・小橋建太に敗れた。フィニッシュはまさに、ラリアットであった。そしてそこから4年後、天龍源一郎と最後のシングルマッチをおこなった(2000年10月21日)。思うようにならぬ腰と両膝の悪化により、この時には引退を決めていたという。試合も完敗した。だが、引退手記でハンセンは、こう語っている。

〈天龍が全力で向かってきてくれたことで、私はなんの悔いも残らなかった〉(「東京スポーツ」2001年1月30日付)。

 帰国後、即手術をすると、その腰の骨は大きく摩耗していたばかりか、3箇所の穴が空いていたという。翌年1月、「日常生活には何の支障もない」と笑顔で引退会見をおこなったハンセンが、集まった大勢の報道陣を色めきたたせた発言があった。

「願わくば、プロレスに復帰したいと思っています」

 直後にハンセンは言葉を紡いだ。

「全力で走ることが出来ればの話ですが」

 そう言って寂しく笑い、こう付け足した。

「今日の会見は、違和感があるね。普通なら試合とかプロレスのことを話すのに……。もう、そんな日々は過ぎたんだね……」

 1980年代前半、日本人女性と再婚したハンセン。結婚する際、こう言ったという。

「最初の25年は、僕が稼ぐから、後の25年は、君が面倒を見てくれよ(笑)」

 今年で引退から24年。はからずもその通りになった。アメリカで妻は看護師として働き、ハンセンは主夫として、日々研究した料理を出している。今ではプロ顔負けの腕だという。もちろんハンセンは、一度の復帰もしていない。インタビュー時、駆け抜けた日本での戦いを、こんな風に振り返ってくれた。

「日本のファンは、試合の結果がどうあれ、本当はどちらが強かったのかを常に見ていてくれた。だから、自分も頑張れた」

 引退会見で、「日本での25年のプロレス人生は、アメリカのプロレスの50年に等しい」とも語ったハンセン。その表情は誇らしげだった。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。フジテレビ「カルトQ~プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。近著に「プロレス発掘秘史」(宝島社)、「プロレスラー夜明け前」(スタンダーズ)、「アントニオ猪木」(新潮新書)など。

デイリー新潮編集部

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