倹約家で知的な紳士…「スタン・ハンセン」が小橋建太に伝授していたウエスタン・ラリアット“必殺技の極意”とは

スポーツ

  • ブックマーク

仕事だからこそ、誠実に

 ところがである。1981年12月、そんなハンセンから新日本プロレスに、1万ドルが振り込まれた。寄付や御礼の類いではないことは明らかだった。なぜなら、まさにこの月、ハンセンは新日本プロレスから全日本プロレスに電撃移籍を果たしたのである。全日プロの世界最強タッグリーグ戦・最終戦の蔵前国技館大会に、ブロディ、ジミー・スヌーカ組のセコンドとして登場した衝撃のシーンをご記憶の方も多いだろう(1981年12月13日)。この3日前まで、ハンセンは新日本プロレスでのシリーズを最終戦まで戦い抜いていただけに、まさしく驚愕の移籍劇だった。

 振り込まれた額を見て、当時の新日本プロレス営業本部長だった新間寿氏は気付いたという。

「契約書に明記されていた、違約金の額と同じだったんです。それも振り込まれた日付は、全日本に登場する2日前の12月11日で、新日本での最終戦が終わった翌日でした。彼は新日本でちゃんと最終戦までやったわけだし、全日本ではセコンドについただけで、実際に試合をしたわけではない。だから契約上は何の落ち度もないのだけれど、真面目な男だし、“新日本に、迷惑をかけてしまう”という気持ちが強かったんじゃないかな? 悔しいけど、爽やかな幕切れというか、“立つ鳥、跡を濁さず”でしたね」

 そして、移籍先となった全日本プロレスのジャイアント馬場は、ハンセンについて、こんな所感を述べている。

〈外人レスラーの中には、シリーズが大入り続きだったり自分が人気者になったりするとボーナスを要求してくる男が多いが、ハンセンにはそれがない〉
〈ギャラのことでも一度契約したらあとは何も言わない〉(ジャイアント馬場著『個性豊かなリングガイたち』ベースボールマガジン社刊より)

 過去のインタビューでは、仕事への理念を、こんな風に語ってくれた。成長した子供たちにも、よく言って聞かせる言葉だという。

「仕事だからこそ、誠実でなくてはならない」。

次ページ:日本のプロレスの25年はアメリカの50年

前へ 1 2 3 4 次へ

[3/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。