倹約家で知的な紳士…「スタン・ハンセン」が小橋建太に伝授していたウエスタン・ラリアット“必殺技の極意”とは
今から6年前、「外国人プロレスラー総選挙」という投票企画が週刊誌に掲載された(「アサヒ芸能」2019年2月14日号)。1000人のプロレスファンから募ったランキングの5位から2位までは、以下だった。アブドーラ・ザ・ブッチャー、ハルク・ホーガン、タイガー・ジェット・シン、ミル・マスカラス……となれば、1位は当然、この選手しかない。
【写真】新日本プロレスのラリアットの使い手といえば「長州力」…秘蔵写真で振り返る、リキラリアットの若獅子時代
スタン・ハンセンである。
アントニオ猪木率いる新日本プロレスでトップを張り、移籍先の全日本プロレスでも初対決のジャイアント馬場と歴史に残る名勝負を展開(1982年2月4日)。全日のトップとして君臨し続け、2001年1月28日、全日本プロの東京ドーム大会で引退セレモニーを行い、28年に及ぶ現役生活を終えたが、人気は未だに根強い。本人や関係者への取材を含む各証言から、ハンセンが日本でトップ外国人選手となり得た人生哲学、そして何より、何故、日本のマットで頑張り続けることができたのか。その真実を解き明かしたい。
極度の近眼ゆえに……
ユニークなセールスコピーを一般公募する「糸井重里の萬流コピー塾」(「週刊文春」1983~88年)という企画で、「子供にベンキョーをすすめる」というお題の際、こんな投稿があった。
〈はじめまして、このクラスを担任することになりましたスタン・ハンセンです〉
寸評にはこうある。
〈プロレスファン以外には通じないかも知れないが、ハンセンの凶暴性と知的な雰囲気をうまく利用した〉(1984年3月1日号)。
実際、プロレス入りする前は地理の教師だったハンセン。勇猛果敢なファイトスタイルながら、ひとたびリングを降りれば物静かな紳士というギャップがハンセンの魅力のひとつだが、教師だった経歴がそうさせているのかもしれない。
初来日は1975年9月(全日本プロレス)。一介のヤングレスラーに過ぎず、本人へのインタビューによれば「和式のトイレが珍しくて、写真に納めた」そうだ。ブレイクしたのは76年4月、ニューヨークの試合で、ブルーノ・サンマルチノの首の骨を折ってしまってから(※第6頸部脊椎骨骨折)。この怪我はボディスラムの失敗によるものだったが、これにより、当時25歳のハンセンは、“危険な男”として一気にクローズアップされることになる。翌77年1月より、新日本プロレスを主戦場にし始めると、あの有名な雄叫びを口にするようになった。
「ウィー!」
本人曰く、正確には、「ユース(YOUTH)!」と言っており、「俺たちYOUTH(=若い世代)がこれからのリングの主役だ」という気持ちを込めていた。
実際、ハンセンのイキのいいファイトは、新時代の到来を予感させた。日本でついた異名は、「ブレーキの壊れたダンプカー」。日々、全力ファイトが身上だった……とはいえ、少々裏事情もある。ハンセンといえば、お馴染みの入場テーマ「サンライズ」が会場に鳴り響くと殺到するファンを追い払うようにブルロープを振り回す姿がおなじみだが、実は極度の近眼で、入場時にはリングはなんとなく四角くゆらめいて見えていただけという。そこで、その方向だと目星をつけて一直線に向かう進路を確保するため、あの入場シーンとなったのだった。
リング上でも同様で、試合後、レフェリーに「殴ってゴメン」と謝ると、「ん? 俺、殴られてないよ」との返答が。「えっ? じゃあ俺が殴ったのは、いったい誰だったんだ?」なんてことはしょっちゅうだったとか。ある意味このハンデも、小手先のテクニックを使わない、全身でぶつかるファイトに繋がったといえる。だが、肝心なところで暴走ファイトも極めて多く、猪木には6度も反則負け。馬場とも反則絡みの決着が4回。“無冠の強者”の印象も強かった。
そんなハンセンの代名詞こそ、ウエスタン・ラリアットだった。
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