ニューヨーク・タイムズ紙の「今年行くべき場所」 注目されない「富山」は残念だから価値がある
なかった天守を建てなかった石垣を積む
こうして城下町らしさが一掃されてしまった富山。ヨーロッパでは空襲で破壊された都市に、かつての町並みを再現しようと試みるケースが多かったですが、富山が目指したのはあくまでも近代都市でした。
象徴的なのが、昭和29年(1954)に富山城址公園で開催された産業大博覧会でした。空襲で都市がほとんど壊滅しただけに、この博覧会を復興の景気にしようという県や市、産業界の意気込みはことのほか強く、富山が近代都市として再生するシンボルとして、富山城の石垣上に鉄筋コンクリート製の真っ白い天守が建てられました。
歴史都市を復興しようという試みじゃないか、と思うでしょう? でも違うのです。じつは、富山城に天守が建ったという記録はありません。建築計画はあったようですが、実際には建てられていません。だから天守台(天守が建つ石垣)もありません。それなのに、本丸の正門だった鉄門の石垣上に、現存する犬山城や彦根城の天守を参考に、史実とまったく無関係の模擬天守を、無理やり建ててしまったのです。
市街地のほぼすべてが焼失した富山の人たちが、復興のシンボルを欲したのは当然だと思います。でも、復興事業の名のもとに、辛うじて残っていた城の内堀を次々と埋め立てたりしながら、史実と関係なく、むしろ歴史への誤解を招くような天守を建ててしまったことに、私は違和感をぬぐえません。
しかも驚いたことに、このインチキ天守が平成16年(2004)、「地域の景観の核」として国の有形文化財に登録されてしまったのです。これで取り壊すこともできなくなってしまいました。
その後もへんてこりんな整備は続きます。平成20年(2008)には本丸の東辺に、かつて藩主の隠居所の正門だった千歳御門が移築されましたが、ここは江戸時代には土塁が続いていた場所なので、そこに門を移したら、やはり歴史的な景観と違ってしまいます。そのうえ、門の周囲をはじめ本丸東辺の土塁の跡に、お金をかけて石垣が新造され、唯一、内堀が残っている本丸南辺も、その東側は土塁で固められていたのに、石垣が積まれてしまいました。
辛うじて残った城跡を、昔の姿より立派に見せるために、昔はなかった天守を建て、石垣を積んで……というのが富山流のようです。現在、富山城の本城だった金沢城は、できるかぎり旧態に近づけるという方針のもと整備が進められていますが、富山城の整備状況はそれと正反対。いまなお産業大博覧会の精神から抜け出られないのか、余裕のなさが感じられます。
食べ物がおいしすぎる
富山市を腐してばかりいる、と感じた読者が多いかもしれません。たしかにそうですが、逆説的ですけれども、だからこそ訪れる価値があるとも思うのです。空襲で焼け野原になった日本の都市は戦後、どういう方針のもとでどう復興を遂げたのか。その過程でなにを継承し、なにを継承せず、なにをまちがい、なにを成し遂げたのか。いわば破壊から復興する道筋におけるすべてが、博物館のように詰まっているのが富山だといえるでしょう。
筆者個人の意見をいえば、灰燼と化したとしても、かつての歴史と伝統がある街を可能なかぎり再現し、歴史遺産をもっと尊重してほしかったと思います。しかし、そうはならなかった富山にも、反面教師としての価値はあります。それに日本の戦後復興の典型として、戦後80年の歴史について考えるうえで、格好の教材だということもできます。
このように都市自体がある種の博物館であるわけですが、隈研吾氏が設計した富山市ガラス美術館など、それ自体に見応えがある美術館もあります。富山市芸術文化ホール(オーバードホール)は、舞台芸術や音楽のための全国的にもすぐれたホールです。
それに食べ物がおいしすぎます。新幹線を待つあいだ、富山駅構内の「廻る富山湾 すし玉 富山駅店」で寿司を食べましたが、大衆的な回転寿司でこれほどハイレベルな味に出会ったのははじめてです。お土産に買った高松屋の真鯛昆布〆やホタルイカの沖漬けも、想像を超えた絶品でした。おいしい店はいくらでも見つかりそうです。
腐したようですが、富山とはそういう視点をもったほうが楽しめる町だと確信します。金沢と対比させると、さらにおもしろいと思います。
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